2005年07月15日

創作とは何か。

 この年になってようやくぽつぽつと手塚治虫の作品にふれる機会が得られるようになってきました。あらかじめ断っておきますが、私はまだまだごく一部の作品しか読んでいないので、以下の記事に反論がある方はそれを踏まえて(たとえばこの作品はそんなことないとか)反論してくださるとありがたいです。

 案外というのか、結構いいかげんですね。何がって、ディテール(細部)が。「火の鳥」は名作の呼び声が高く、また実際私もそれはそうだと思いましたが、ディテールにおいては、一部分だけを取り上げると、極端な話破綻しているものもあります。「ブラック・ジャック」などもものによってはいい加減です。もちろん手術がありえないという意味ではなくて、一話全体のまとまりに欠け完成度が低いという意味です。個人的には藤子・F・不二夫の方が平均的に完成度が高いとの印象を持ちました。亡くなったとき「ドラえもん」についてはマスコミが専門家(?)を集めてちやほや言ってましたが「ミノタウロスの皿」について議論がなかったのは残念に思います。

 話がそれました。「火の鳥」です。宇宙編・未来編他にもあったように思いますが、ストーリーが最後のメッセージをどれほど引き立たせる効果があるのか私には疑問でした。その意味で悪く言えば荒削りとの印象が拭えなかったのは事実です。もっとも、手塚治を読んで影響を受けた人達が書いたものを私が読んでいるとすれば、それは元より完成度は高いはずだから、その意味においてもストーリーに効果がない(としてもその)ことは、あまり致命的な欠陥とは言えません。しかしそれは先駆者であるとの色眼鏡をかけてるとも言えるでしょう。いずれにしても本質ではないです。

 では足りない細部を補って余りあるものとは何か。それこそが創作の原点であろうと私は感じました。それはもちろん迫り来る締め切りなどではありません。
 それはスケールの大きさです。
 内容や設定の問題ではありません(人類規模で考えてるからスケールが大きいとかいうこととは違うということ)。私は「火の鳥」に限って言えば、この作者と似たような内容の話を書いたことがあります。でもスケールの大きさがまるで違う。それが設定にまで反映されている、といった具合です。一方私は何をしていたかといえば、ディテールを見栄えよく見せることのみに腐心して、創作のスケールなんて考えも至らなかった。小者です。

 創作者の所以は、創りたい作品のスケールのでかさに尽きます。繰り返し断っておきますが、極大の世界から極小の世界まであるなかで、極大であれば大きいという意味ではありません。ひらたく言えば、自分は描きたいことがあまりにたくさんありすぎて、字面なんかに構っていられない、ということです。とりわけ漫画であればより多くの技術が要求されることになりますから。
 ・・・ということはその逆に針が振れることもそれはそれでスケールが大きいといえるかもしれません(作品に触れないことには分かりませんが)。

 早い話、羨ましいなあというだけのことです。私などは創作者の端くれにも程遠いです。

 名言!へどうぞ。


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