B男「どこで!? ていうかどうやって!」
A女「めちゃカワイイねん。この秋の新作やで」
B男「新作!? その鞄に遺稿が入ってたんかいな」
A女「買ってー」
B男「そんなもん買えるかいな」
アンジャッシュに売るにはあまりに間口の狭いネタでした。針に糸を通すとそこは夜明けだった。全てにおいて不器用なLG18ですこんばんわ。
「○○がしたい」というのが明確にあって、現にそれをやりながら日々を過ごしている、あるいはそうなれるように努力している、という状態は、(傍目に見ていて)とても幸福だと思います。ただその幸福というのは、「信じるものは幸せだ」と言われるときの「幸せ」に近いように思いました。
私は周囲の人間から、(私を見ていて)何がしたいのか分からないといわれます。実際自分にも分かりません。ただ私の場合は何に対しても興味が湧かないというのではなく、むしろその反対だと思っているのもあって、何がしたいのかということを是非見つけなければならない、と言う風には思えません。「やりたいことを仕事にしよう」というフレーズは耳に心地よく、またそれを目指すのは素晴らしいことだと思います。ただ、そうしなければいけないというものではないと思うし、その価値観を若いうちから植え付けることは、反面で視野を非常に狭める恐れもあるように思います。
「どうしたい」というのがない、と言う言葉を聞いたとき、ある感覚を感じました。それは言葉にすれば上に書いたような、負け組のぼやきとも取られかねない内容になってしまいしたが、それほど悪いことではないと思います。
いわく「聖夜のおねだリスト252」(JJ)。他の女性誌も大差ありません。252もかいと、思わず呆れ笑いがこぼれますが、それは本当に欲しいモノなんでしょうか? マスコミにノセられるなというだけの意味ではなく。
私は、あえて言うなら、生きていたいです。それ以上は望まないとかいう意味ではなく、純粋にそれ以上に思いが及ばないです。