2006年02月21日

神経伝達物質とシナプスの百年愛(言葉の力・本編)

 ピカソの絵は分からないと一般によく言われますが、絵画は数学の問題ではない(ダビンチコード? は?)ので、価値という語句を補って解釈するべきでしょう。私の友人に絵の上手い奴がいるんですが、絵は分からんというから、自分絵上手いやん、って言ったら、ピカソの話を始めました。そいつはピカソのエビの絵を(テレビで)見たんだそうですが、友人いわく「辛うじてエビと分かる程度」で「子供が描いた絵みたい」と言ってました。私は「ピカソがエビの絵を描いた」と、間抜けた返事をしました。
 この続きも書きたい(書くべき)ことはたくさんあるんですが、それはまた次の機会に譲って。

 一方、ヴィトゲンシュタインという哲学家が著書にしめした「語りえないものについては沈黙しなければならない」という有名な言葉があります。これもやはり、一般人(というかわたくし)にとっては(いたずらに)もてはやされるという点について確かに分からないこともありますが、ピカソの絵よりはよほど、その価値と中身について、平衡感覚が保たれている気がする。つまり、わかったような気になれる。それが言葉の力なんだと思います。

 人は皆自分の世界を持っていて、他人とは互いに相容れない、遠い異国の空か、あるいは異星人です。ホテルは宇宙船です(違います)。恋愛にしがみつく価値観も土台は哲学的であるとさえ思います(でなきゃわざわざ取り組んだりはしない)。そうして隔絶された世界を繋ぐ、あるいは共有する手段として、言葉が(その能動性に鑑みて)最も可能性があるのではないかと。

 力というのは、脅威でもあります。私は他人より若干舌が回るそうですが、そのために見落としているものは少なくないと思っています。他人と共有できる要素が多い反面、個々のインスピレーションを汲み取る神経が麻痺してるだろうと。

 ピカソの作品はむろん技術探求もあったことは明らかですが、それが(究極の)目的ではなかったこともまた明らかです。ピカソの絵から汲み取ったインスピレーションがあれば、それは言葉では表せないだろうし、言葉で表した瞬間に言葉で表せる以上のものでなくなってしまう。そうやって他人と共有された世界は自分が得たインスピレーションの残骸すらなく、私はそれは寂しいことだと思います。(そんなわけで、3ヶ月に一回程度、ハリウッドのCG動画を120分前後見るたびに「感動する」ような、あるいは良い大人がいつまでもネズミやアヒルの着ぐるみにはしゃいでるような感覚にはきわめて懐疑的に接することになる(どだい輸入モノじゃないか)のですが)

 ええと、それで何だったっけか……映像についてはまたちゃんと(たくさん)観てから書きたいと思います。
 すでにお別れしたようです。

 おまけ(使えなかったピカソネタ)
posted by LG18 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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