2006年05月26日

公務員・司法試験(択一式試験)の解法の極意

 小学生(2年か3年か)の頃、出したくもない出し物を出さされて、ネタもないのでベタに○×クイズなんかやったときのことを思い出します。私はそのうちの一問に「一年は356日である。○か×か」という問題を用意していたのですが、同じ班の奴が何を思ったか、「一年は700日である。○か×か」と読み上げました。私が思わずその場で「なんでそんなに多いんだ、馬鹿」とそいつを罵ったところ、そいつが言うには「(読み上げるべき)数字を忘れたからだ。どうせ×なんだから何日だって良いじゃないか」と開き直りました。
 そいつの顔は忘れましたが、このことは今も覚えています。

 公務員試験は主に選択肢を選ぶ形式の問題です。択一試験もまさにそうです。それぞれの選択肢について○か×かを選ぶ、ということを考えれば、これは○×クイズと同じことです。一年が何日であるかということについて、@365日と正確に覚えている人、A300何日だったとうろ覚えの人、B3桁ぐらいだろうという人、Cとりあえず数字を聞いてるんだなということだけは分かる人、D何を聞かれているかさっぱりわからない人、ぐらいにわけておきましょうか。とりあえず。
 私が作った問題は、A(以降)の人間を惑わし、間違えさせる意図を持った出題です。どうせ×なんだから何を言っても良い、というのでは、問題を出す意味がないことは明らかです。つまり、作成者は、どこかで受験者を間違えさせようという意図を持って問題を作るのです。当たり前のことですが、試験となると「1年は365日」という正確(ではないが、今はおいといて)な解答を(出題された全ての問題について)覚えておかなければならないわけではない(もしそれを出題者が求めるのであれば、記述式にするはずだ)、ということです(もちろん正確に覚えているに越したことはないが)。マークシートにしないと採点が大変だからだ、というのは、本質を誤った見方であって、仮にそれが理由であったとすると、数学の問題にまで選択肢があることの説明がつかない。センター試験みたいにすれば良いところを、わざわざ5択にしてある。これは(作成者にとっては)却って面倒な作業です。いかにも正解に見える誤答をわざわざ考えなければならないのだから。

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posted by LG18 at 02:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 法律のはなし・受験記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月24日

たまには天ぷらうどんもどうぞ

 プロフィール欄でコツコツ更新してたものをまとめて紹介します。趣味丸出しで恐縮ですが、興味のある方はどうぞ。

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2006年05月23日

人は物語が好きなのだ

 資生堂の「TSUBAKI」というシャンプーが非常に売れているらしいです。
 トップアイドルの曲に乗せてトップアイドルがかわるがわる髪を靡かせるだけのCMをバンバン流すだけでバンバン売れるんだから楽なもんだ、と冷ややかに構えていたのですが、事はそう簡単ではないらしい。不景気のときに、ピンで使える女優をCMで何人も使ったりしたら白けてしまうとか、単に数集めりゃ良いってわけじゃなくて、需要を多様化させてきた販売戦略を統合へ向かわせるべくそれぞれイメージの異なる女優を起用したのだとか、それなりに意図や賭けの要素はあったらしい。
 まあ、サクセスストーリーには紆余曲折がないと(お客様である)世の女性が食いつかないからな、とやはり冷淡を決めこむLG18ですこんばんわ。経済には疎い方が、金には縁がなくとも幸せに生きていけるという、妙なポリシーがあります。(妙でも何でもない、単なる貧乏人のひがみだ)
 前回の記事で漫画に文章が多すぎると文句垂れましたが、なぜ活字が昔に比べて増えたかといえば、実際にはその方が人気があるからだろう。RPGの影響も大きいと思うのですが、活字を読むことでより面白く感じる、と。
 知りもしないで書きますが、かつて、それこそ天才バカボンが流行っていたような頃は、(漫画が大好きな)子供は、活字を読むのが嫌だった。極端に言えば、絵であればなんでもよかった。今はというと、たとえばカードゲームのカードの半分は活字で埋まっている。それもビックリマン(今の子供は知らないだろうが)のシールの裏にあった、紙の向こうが透けて見えるような、すなわち一人の人間が一夜で100も200も書く姿が自ずと想像されるようなもの(私は好きだけど)ではなく、いかにももっともらしく書いてある。別段ゲームの進行に必要なわけでもないのに、どうもあれがないと駄目なようだ。インベーダーゲームとFFの違いも同じ。教科書にもイラストが氾濫しているし、絵に対するハングリーさが根本的に違うことも一因だろう。漫画に文章が増えたことは、そういった流れも大いに影響している(もちろんそんなことは承知で、そこを絵で描くのがマンガ家だろって言ってるのが昨日の記事なんだけど)。

 以前この記事を書いたときに私が想定していたのは、噂話より活字の方だった(テレビは宗教だからまた構図が違う)。聞いた話よりも読んだ話の方が、より疑いを挟む余地が少ないように思われる。感情よりも理屈の方がウエイトを占めるからだろうか。理屈の定義でもあるが、そこでは大抵のハッタリはまことしやかに見えてしまうからくれぐれも気をつけなければならない。もっとも、本当のことを書くといかにもハッタリのように見えてしまうことも少なくない、けども。
posted by LG18 at 01:46| Comment(0) | TrackBack(0) | ひとこと・つぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月19日

「この炊飯器にはタイマー機能がついてますが、米は炊けません」

 少し前に「のび太の恐竜2006」という映画がロードショーでやってました。作者である藤子・F・不二雄は亡くなっているので当然別の人が作ってるわけですが、看板を見るとタケコプターで飛んでいるのび太の髪が風に靡いている。フリづらいネタで始めたもので挨拶の間が取れずまごついているLG18ですこんばんわ。

 タケコプターがどれほどのスピードかは分かりませんが、中空を飛んでいる以上はある程度の風を受けるわけで、髪が靡くのはごく自然なことです。逆にいえば、今まで風に靡かなかったことがおかしい、といえる。スネ夫に至ってはもはやカツラを通り越してヘルメットですよ。
 しかしながら、私は不快感を禁じえなかった。それはこの絵にではなく、作画者にでもない。もちろん、なじみの深い絵を変えられたからでもない(描く人が変われば絵が変わるのは当たり前のことだ)。

 なぜ今までのび太の髪が風に靡いてこなかったか。そんなことはどうでもいいからだ。アニメの場合、技術の問題も勿論あるが、もしかしたら、作者は意図を持って髪を靡かせなかったかもしれない。それくらいにどうでもいいことだ。

 ドラえもんに限らず、今の漫画はどうでも良い詳細にこだわりすぎる傾向がある気がする。かつて私は手塚治虫の作品について詳細がかなり省かれていて、その点では完成度に欠けるという内容の記事を書いたことがある。それは風に靡く髪どころか、ストーリーの進行上必要であると思われるレベルの詳細について詰められていないと感じたからであるが、なぜそんなことになるかといえば、そんなことに構ってられないほどに描きたい中身があったからだ。

 「のび太の恐竜2006」に中身があるかないか、私は見てないからわからない。中身があれば良いというものではないし、無いから駄目だともいえない。実質に加えて形式が備わればそれに越したことはないとも言える。
 ただ、上にも書いたように、全体的に少女漫画化してるというか、例えばAが宇宙人だという事実をBが知って驚いて、そのときまだCは知らなくて、ずっと後になってCが知ったときにまた同じように驚いて見せるとか。しかも大抵そういったものは作者が望んでその状況にしているのではなく(すでに読者が知っていることを驚いて見せることに意味は無い)、話の展開上Cは知らないことになってるんだから、じゃあ驚かないと不自然だ、という、単なるつじつま合わせでしかないことが多い。ここからは主観だが、そんなつまらないつじつま合わせにコマを浪費するような無駄の多い漫画は、くだらない。それに、現実から跳躍するという漫画の出発点に矛盾する傾向であるという点からも、実にくだらない(一つの町でひっきりなしに殺人事件ばかり、それも犯人が毎回の様にちょこざいな小細工を弄するとか、指摘として無益を越えてもはや害悪だろう)。

 もう一つ本末転倒ということでいうと、「天才バカボン」という漫画で、バカボンのパパが走り回ってるコマがあって、バカボンがパパになぜ走り回っているのか尋ねたところ、パパが「コマをうめるのだ」と答えるくだりがある。
 これはバカボンパパにしかできない荒業であるが、漫画である以上、コマは絵で埋めなければならない、そうでなければ漫画である意味がない、という決まりであり誇りでもあったところがある。
 ところが最近の漫画の活字(文章)の実に多いこと。それも絵ナシで文章だけのコマとか、ざらにある。

 形式を頑なに守れというつもりはないが、なかにはそんなに文章が書きたいなら小説描けばいいじゃないか(単に絵描くのがしんどいからサボってるだけだろう)と思うものもある。短歌について書いたときと同じことだが、自分が何の為にその表現手段に拠るのか、小説なら文章、漫画なら絵、音楽なら音、その素材とどれほど向き合ったか、その特質を見極めて描いているのか、という基本的な姿勢は、もう少し問われるべきじゃなかろうか。
 漫画みたいな小説、小説みたいな漫画、漫画と小説のコラボレーション、ニュージャンルの開拓、確立。「DEATH NOTE」を西尾維新がノベライズ。大いに結構。そういった「動き」を否定してるわけじゃない。むしろ賛同だ。漫画とは何か、文章で描くとはどういうことなのか、各々の表現方法と真摯に向き合った上でのものであれば。

2006年05月18日

おムコさんになりたいという男がいないのは、なぜだろう

 断っておきますが、偏見です。いつもにまして。

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posted by LG18 at 03:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月16日

他人の邪魔をしているときは

 たいてい自分が他人を邪魔しているなんて露ほども思っていない。よくあることです。

 (P.S.)
posted by LG18 at 02:46| Comment(0) | TrackBack(0) | ひとこと・つぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月14日

やはり愛は裏腹か

 だだだ誰ですかブリーチ22巻のゲタ帽子萌えの話かなんて思う奴は。
 ……たまにはこれくらい強引な切り口も良いかなと。LG18ですこんばんわ。

 えーと、昨日の話の続きですけどね。例えば好きかどうかとか面倒な話は抜きにして、力任せに女を犯したとして、それによって愛が芽生えたり、相手に惚れられたりということがあるとします。化学反応が起こっている最中のこの状態を(恋ではなく)愛と呼ぶなら、反応を起こし続けない限り、愛は途絶えることになります。

 私は、メロドラマを観て涙流すような女とは正反対の立ち位置にいると思ってますが、だからこそ逆にというのか、できることなら愛は死ぬまで途絶えないでいる方が良いと思っています(くどいようだが、恋ではない)。それが可能という前提で話を進めるなら、それは母性愛とか、兄弟愛とかであって、相手は恋人より同胞であると思います。そこではむしろ化学反応は無かったり、有ったにしても極めて単調で、無いのと同義だったり、ということになると思います。

 こういった視点から昨日の話をみると、化学反応が起きる状態にありながら、反応自体は起こらない(起こさない)という歪(エロ)さを描いたものだと言えます。下にも書きますが、純粋に禁忌に掻き立てられた恋愛小説(「春の雪」。もちろんこれは長編の一部でしかないから、恋愛小説という括りは全くいい加減なものだが)と比べて熱の質が全く異なるのは当然のことです。

 愛は燃え盛る炎のようにとは良く言ったもので、瞬間最大風速のような概念の方が、少なくとも恋愛における愛については本来的であるように思います。そこでは背徳が媚薬となり、駄目だとなると惹きつけられ、いよいよ魅せられるということになる。当然、長持ちはしない。
 逆に、長続きしているカップルを見て恋人というより兄弟みたいだと感じた経験がありますが、環境の変化などであっけなく切れたりする。それは本当は兄弟ではないからで、刺激に脆いところがある。
 ともかく、同じ愛といっても正反対と言って良いくらいに質が違う。これを並列に論じて「あなたは愛を誓いますか」「誓います」なんて言ったって、単なるセレモニーにしかなり得ない。ましてや日本にはキリスト教が根付いてるわけでもない(結果、愛という言葉に対する共通の認識が薄い)し、ナンセンスを通り越して滑稽だというべきです。私は化学反応に本来的に興味がないから分からないが、身も溶ける恋愛の渦中にある二人はそれが永遠に続くものと信じて疑わない、みたいですね(私の考えでは男は気ぃ遣って女にノリを合わせてるだけのことですけどね)。

 明日生きられるか分からないとなれば必死で生きると言われるのと同じように、危機感や嫉妬を焚き付けたり、背徳や禁忌を犯してこそ、最高の恋愛が楽しめるということでしょう。
 平凡な結論ですけどね。
posted by LG18 at 04:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月13日

「眠れる美女」を読んで寝言

 先日友人とカラオケに行ってきました。気心の知れた顔ぶれで遠慮は要らなかったので、勇んでお気に入りのバンドを探しましたが、バンド名自体が項目に無くてがっかりさせられました。インディーズのファンはこういうときが不便だなぁと思ってましたが、帰ってから、「チリヌルヲワカ」というバンドなのに、「イロハ」(アルバム名)で検索していたことに思い当たりました。紛らわしい名前だ。
 さて、これを読んでくださっている方も、次回以降「天丼のない天つゆなんて」で検索をかけてここへ辿りつけないことのないようご注意ください。インディーズなもんでご迷惑をおかけします。管理人のLG18ですこんばんわ。最近更新の間隔が空き気味ですが、決して試験勉強に勤しんでいるため更新の時間が取れないとか、そんな真っ当な理由ではありません。単なる気まぐれです。

 川端康成の「眠れる美女」をようやく読み終わりました。何年か前に途中まで読んだきりそのままになっていたのを、先日気まぐれをおこして続きから読み出してそのまま最後まで読んだという。以前の話を覚えているのかという疑問があるかもしれませんが、全く問題ありません。読めば分かる。
 延々と同じこと(眠れる美女)ばかり描かれます。息苦しい(単調とは違う)。そしてエロい。ここでいうエロいというのは、非常に危険な意味を指します。倖田未來だか來未だかの格好やAV女優に付けられる形容詞のような、(表向き)健全なそれとは違います。えげつないという言葉の方が正確に伝わるかもしれません。
 スピッツの「冷たい頬」は、殺した女(13歳未満)の頬を撫でながら、「壊れながら君を追いかけてく」ことをも(無意味だと)穏やかに醒めきった、ある種超越した感覚で振りかえるだけの歌ですが、方向性は近いです。中身が書けないもんだから似た作品を挙げただけです。

 エロ(ティシズム)とは何か、考えさせられます。私はそこらの野郎よりも変態を自負してますが、上に描かれるエロは生産的でないという意味で本来のものとは違う。「眠れる美女」は、眠ってるという設定にはなっているが、実質上死んでいるものとして描かれている。「死ねる美女」でない理由は、ネクロフィリアに限定するのがナンセンスだから、つまりはエロさに欠けるからということですが。
 結晶としては作品でしか成立し得ないという意味でも、危ういものだと思います。ナトリウムみたいなもんですかね。

 解説で三島由紀夫がデカダンスだと書いているのですが、正直私はデカダンスの主義主張が未だに理解できてません。むろん(?)高校の現代文の授業中に延々文庫本で「斜陽」を読んでいて、当てられたのに無視したという理由で(私は当てられたことを知らなかった)本を取り上げられたクチなんですが。
 (「眠れる美女」に比べれば)あんなものはデカダンスではない、と三島は息巻いてますが、それは流行としてのデカダンスと孤高のデカダンスとの違いであって、要するに時代の違いでしかないと思いますけども。
 やけっぱち芸術? そんなものに人生を賭する価値が? 芸術のやけっぱちか、やけっぱちでも芸術か、それが問題だ、とか言って。

 文学を専攻してる方に贔屓してもらっているここで言うのも気が引けるのですが、文学は経済学よりも学問たりえないと思います。

2006年05月09日

扇町公園で会いましょう

 気分転換に扇町公園へ行ったのですが、カップルかそうでないかは知らないが男女が仲睦まじくしているのや数人の爺さんが丘で寝ているのを見るばかりですることもなくて、結局気分は晴れませんでした。こういう時に普段会わない女の子の彼氏の愚痴とかを聞けたら良いのにな、と思います。できれば普通の人がドン引きするようなやつを。
 (扇町公園の)一本南に道を入ったところにビリヤード場があるんですが、素通りして予備校に戻りました。もう長いこと新しい人間関係がないなんて、毎年GW過ぎたくらいになると同じような感情を抱きますが、この男は可愛い女の子と関係を持ちたいだけで、それならわざわざ公園まで行かなくたってその手前に良い場所があるじゃないかって話なんですが、一歩がなかなか遠い。まあ、社会人になってからの楽しみを置いとかないと。

 毎度のことながら、試験前はどこでも楽しそうに映るものです。
posted by LG18 at 23:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 法律のはなし・受験記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月06日

萌えの定義

 (容量)60メガバイトのPCが80万円していた当時(そのころウィンドウズは無かった)から日本橋(大阪)を歩いていたLG18ですこんばんわ。そのくせ未だに何の能もないブログをやっていくのが精一杯です。大学に入るまでキーボードすらろくに叩けなかった。興味が無ければどれほど環境が整っていても無駄だということです。

 萌えという言葉は、今では普通に使われていますが、10年ほど前に出てきた当時は、急激な変貌を遂げつつあった日本橋の街並みと、自分の性格や年齢等が相俟って、ただ無視や敵視することしかなかった。もちろん周りの知人達はそれらの動向を知らないし、知っていたとしても表立って話題にすることはしなかった。萌えという(言葉が指す意味)のは、自己満足のことであって、それを他人に晒すということは、オナニーを見せているのと同じことだと理解してました。まだオタクがオタクであった頃の話です。
 とはいえ、本質的に変わったわけではない。ただ自己満足を晒すことが一般に市民権を得て、共感を得ようとする素質に長けた者が共感を得たい人の共感を得て支持を受け、仲間単位から10万人単位まで幅広く自己満足を共有するようになった。ロックスターやストリッパーなしで皆が一点を見つめる手段を得て、単位は細分化していった。その流れに沿って、萌えという自己満足を指す言葉も広く敷衍し、そのなかでさらに細分化していった。萌えに対する私見を簡明に示すとこんな感じです。

 気がつけば、誰よりも萌え(という言葉)に敏感だったはずの青年は、萌えに取り残されていた。上に書いた私見は古臭いのでしょう。誰に言われたわけでもない(そもそも誰にも言っていない)が、使われ方を見ていてそのように思います。
 例えば、ツンデレという言葉があります。態度はツンツンしているが、内実はデレデレ、の略だそうです。あるいはツンツンしていたキャラがあるとき陥落して、それ以降デレデレに豹変するという。これは萌えの一形態として、確か去年の流行語にノミネートされてましたが、もし現実の恋愛でツンデレを許容する、あるいは萌えるとすれば、随分寛容な恋愛観の持ち主であるように思われます。
 私の知人にも(男女問わず)少なからずツンデレな奴がいますし、つまるところ「(好きだなんて)恥ずかしくて言えない」という感覚(体験)がある人は、程度の差はあれツンデレ的な要素を持っているんじゃないかと思います。それを許容できる人なら、まず恋愛で(相手がいなくて)困るということはないんじゃないかと。
 ツンデレはじめその他の萌えは、日常からエッセンスを抽出して演出しただけのもので、肩肘はった自己満足とは違うのかもしれない(私自身は支持しませんが)。

 そこで「ツンデレ萌えはモテるんじゃないか」と、上のような内容をかいつまんで友人に話してみたら、それは違うだろうといわれました。二次元でツンデレに萌えることと現実に存在するツンデレを許容することは違うと。二次元でも現実でもツンデレそのものは同じと見て良いほど近い、と食い下がったのですが、そうであれば逆にそうはいかないんじゃないか、お前の理屈だとサスペンス好きは人殺しを見るのが好きになる、とバッサリ斬られました。
 筋が通っていて反論できませんでしたが、(事が恋愛であるだけに)何か釈然としないものを感じます。友人の論調では「モテたいモテたい」と足掻いている世の男は、実はモテたくないということにならないか? でも「それに気付かないからモテないんだ」と返してきそうだ。

 話が反れたので、続きはまた後日に書きます。
posted by LG18 at 18:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 愛の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月04日

健康体で戦争へGO

 日立のCMのコピーにタイトルをパクられてしまいました。「録画もできないプラズマなんて」。黒木瞳(それも十二単の)に使ってもらえるなら本望ですが、問題はうちのブログの存在を知られていないことです。「読者のいないウェブログなんて」。管理人のLG18ですこんばんわ。精進します。

 こんな記事がありました。かいつまんで書くと、アメリカの公立高校が、生徒の肥満を防止するために糖分の多いコーラ類と脂肪分の多い生乳の販売を停止する、というものです。海の向こうでも似たようなバカ騒ぎが起こってます。というよりアメリカが本家で、そのマネをやってるわけです。
 日本ではタバコです。至るところで禁煙が強制されています。
 先に断っておきますが、私はタバコが大嫌いです。子供の頃高校生にリンチされて、身包みはがされ犯された後のケツの穴に火のついたタバコを5本差し込まれたからです。今でもヤケドの痕があります。

 日本におけるタバコは、アメリカのコーラ禁止よりは真っ当な事情があって、第一に煙の害が周囲の人に及ぶこと、第二に喫煙者のマナーの悪さが挙げられます。前者はともかく後者は意識次第でどうにかなりそうなものなんですが、私の目玉が今まで見たものはひどいものです。携帯灰皿どころか、人ごみで火のついたままのタバコを宙に捨てるとか。
 私の友人に一人だけ、律儀なまでにマナーを守っていた人がいましたが、その人はタバコを止めました。だから今私は喫煙者のマナーにかけらの希望も抱いてはおりません。

 しかし現在の禁煙強制(喫煙許可スペースの削減や未成年への販売禁止等)は明らかに行き過ぎです。ヴォルテールを気取るつもりはありませんが、狂気の沙汰です。筒井康隆の小説なんか読んでた頃は冗談と笑ってましたが、これが今年の新潮文庫の100冊に選ばれてました。

 「国家が国民の健康を保障する」。まず第一に、余計なお世話だ。私は嫌煙者だから言えるが、自分が吸わないもんだから迷惑だなんて、手前勝手も甚だしい。自分の言動の器の小ささに恥じるということがないのだろうか。
 そんなことを言ったって無駄に決まってるから、大いに保障してもらうとして、第二に、タバコを思い通りに吸えないことからくるストレスに何を保障してくれるのか。「そんなもん知ったことか、自分で何とかしろ」というならこれは喫煙者差別だ。喫煙者は好きでタバコを吸ってるんじゃない、ニコチン中毒で否応なく吸わされているんだ。止めたくても止められない、つまり自分の努力では如何ともし難い継続的事情だからこれは憲法14条1項後段の「社会的身分」に該当するじゃないか。差別だ差別だほら差別だ(途中から町田康のモノマネを混じえてお送りしました)。
 最後に、街の声から。「タバコのことは守ってくれてありがとう国家さん。でも私、お金なくて年金払ってなかったの。バイクで事故して足動かなくなっちゃったのに、障害者年金1銭もくれないのね。ひどいじゃない」「私は障害者年金はもらってるけど、児童扶養手当の受給を申請したらハネられた。『片方で十分だ』だって。ひどいじゃない国家さん。障害者であることと児童を扶養してることは全く別個の事情なのに」
 たまにこういう奴いますね。あれは駄目これも駄目と他人に色々強制しておきながら、いざ自分が何かをしなければならないとなると言い訳して逃げる奴。これから国家さんって呼ぼうか。

 話を戻して、さすが本家のアメリカさん。理屈も何もありません。太ることの何がいけないのか分からない(よその人間いっぱい殺して肥え太って、大いに結構じゃないか)し、そもそも糖分では(一般の人が思うほど)太りません。細かいことはくるりの「TEAM ROCK」のライナーの裏に書いてあったと思いますが、持ってないのでここでは紹介できません。
 因みにアメリカの大学生に中東の白地図を見せて、イラクとアフガニスタンとサウジアラビアとイスラエルの位置を尋ねたところ、正確に答えられた学生は14%だったそうです。逆に、始めから回答を諦めてしまった学生が44%いたそうです。
 中東は分からんよなあなんてわけのわからない同情してる場合じゃないですよ。日本の場所を答えられた学生は49%です。アメリカの大学生の半数には相手にされていません。

 健康体で、頭はパー。すてごまにはもってこいです。
posted by LG18 at 00:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常・全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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