社会人をはじめて40日になったところですが、未だ給料は一銭も入らず。財布はいつも土俵際(徳俵に足が乗っている)、残暑の太陽に照らされてひからびかけのLG18ですこんばんわ。誰だ×××の話かと言う奴は。俺だ。
そんな状況なので、努めてCD店には立ち寄らないように、避けてました。今日はおつかいを頼まれてタワレコ難波店へ行ったのですが。
椿屋四重奏の新シングルのすぐ下の棚にはART-SCHOOLの新アルバムが並んでる。さすがによく分かっておられる。で、ART-SCHOOLを視聴しながら雑誌を読んでると倉橋ヨエコのインタビュー記事がありました。
「東京ピアノ」で裏切りを受けて以来疎遠になって、私自身、個人的にも変化を伴って最近はとんと聞かなくなったのですが、かいつまんで私の言葉にすると以下のようなことが書いてあった。
――これまでは「このピアノが無いと駄目だ」とか、とにかく自分が自分が、というスタンスで音楽に取り組んでいた。一方で、音楽を演奏することの意義について考えることがなかった。表現することに重きを置きすぎて、受け手がどんな気持ちで自分の音楽を聞くかということをもあまり考えてこなかった……
それを今回は改めて、自分が音楽を通して表現することの意味、それから受け手に受け取ってもらいやすいような作品というものを考えながら作った、と。
それでできた新しいアルバムが「お中元」というタイトルだ、と。
ほとんど模範的な受け答えですわな。無論皮肉ではなく、(作品こそ聞いてはいないが)真摯に考えていないと出てこないような言葉で綴られていたし、ゲストを多数招いて自作をカバーするという取り組みもそうだ。また逆に、今更良い子ちゃんが通るような声でもあるまい。正直、「コメントのつかないブログなんて」の管理人としては耳の痛い内容です。しかし、私のような人間は離れていくのではないか。無論皮肉です。
プレーヤーとしての自覚がある者なら、誰だって一人でも多くの受け手を獲得したいと切実に願っている。私だって一端にプレーヤーのつもりです。ただ、一人でも多くの受け手を獲得するためにプレーヤーが行う作為が、必ず良い結果を生むとは限らない(それは取り組みが失敗するかもしれないという意味ではなく)。
上のコメントは、見方によっては「受け手のことを考える余裕ができるくらい、自分を表現する技術は成熟した」という自負の表れともとれます。私は、100人の人に1%が伝わるよりも、一人の人に100%が伝わる方を目的にしています。後ろ向き、あるいは閉鎖的な考えでいるわけではないが、順序としてはそちらが先だと考えるからです。
100人に、1万人に100%を伝えたい(100%というのは自分の思い通りという意味ではない)。誰もがそう望んでやっている。でも現実にそれは無理とは言わないまでも、至難だ。私のことをいえば、理想と現実の狭間で折り合いをつけてここまでやってきた。
倉橋氏の方向は常識的だし、事実のレベルでも非難する人より賛同する人の方が多いことはまず疑いない。ただし、私にとっては色褪せたし、そう感じた人が他にいることも確実にいえる。
(先に挙げた記事の中には、友達からも遠まわしに非難されるというようなくだりもあったが)受け手となるために越えなければならないハードルがあるのはある程度仕方のないことだと思うし、その壁を越えなければ分かち合うものもない。子供の頃に触れても意味が分からないだけの作品で大人になって感動した、という例を持ち出すまでもなく。
そこにあぐらをかくな、という助言は真摯に受け止めるとして。