先々週の末くらいに、久しぶりの友人に会ったときのこと。
友「なんで女の子の髪が長いかが分かった」
LG「なんで?」
友「もうちょっと考えろよ」
LG「伸ばしたからだろう」あまりに投げやりな様子に、友人は笑っていた。
友「『伸ばしたいから』じゃ理由にならん」
LG「違う。『伸ばしたいから』じゃなくて、『伸ばしたから』だと言った」
これはいけない。しかも友人に言われるまで、自覚すらなかった。
就職活動してた頃は「何に対しても自分なりの見解をもち、かつ他人の価値観を否定せず慎重に検討する点」を「自分の長所」として挙げていた。現時点で思うことは(正しいかは別として)、自分なりの考えがなければ、他人の見解を検討吟味することはできないということ。叩き台(自分なりに「女の子が髪を伸ばす理由」を考えること)がなければ、肯定否定の基準すら立たない。
いつから考えなくなったかを考えると、働き始めてしばらくしてからだ。働き始めて実に色々なことが見える様になった。たとえば、坊主と大学教授はなぜあんなにも大勢の前で、誰もが聞くに堪えないような話を長々とできるのか、とか。特段の意識を持たずとも、働いて数ヶ月で立ち居振舞いも変われば言葉を選ぶようにもなる(それでもまだまだ不足だが)。
それらと自分の考えを持たなくなることの関連は解らない(あまり考える気が起こらない)が、このままでは「つゆどん」に記事を重ねることはできないし、それは現時点での私の望むところではない。
学生時代、クラブのOBが飲み会で「社会にぶくぶくと潜っていって、何年か経って、ふたたび水面まで浮かび上がることができたら、良い作品が創れるんじゃないか」と言ったらしい。
月2、3回の更新では続けているとは言えないが、いつかまたガシガシ書きたいと思う。誰もが呆れるようなくだらない記事ばかりを。それまで気長に待ちつつ応援していただければ、幸いに存じます。