別に作者がどう思おうと物語が面白ければ問題ない、私はもともとそういう立場を採ることは去年の大晦日にも述べました。しかし、あまりに容易に認めすぎることは、スプリンターがスクーターに感心することのナンセンスに近いものを感じます。
(自分が創った物語が)実在した話に敵うか否か(といった客観的な事実)や、またそのコメントが控えめながらも前向きであるとか(いう主観的な事情)どうとか、そんなことはあんまり興味がないです。そういった流行があって、(自分がその流行を興したとか、あるいはそれを貪欲に利用するとかいう気概でなく)簡単に流行に口を開けて感心していること自体が問題だと。
私もノンフィクションはどちらかといえば好きです。ただし、本当にあった事実であるという点が(定義ではあれ)それほどの武器であるとは思いません。
何が言いたいかというと、本当にあったから、それで、あなたに何の関係があるのかという。たとえば10年間一途に思い続けた恋人が難病で死んだという「切ない恋物語」があって、それが実際にあったから感動するとか、作り事だからそれほどでもないとか、そういう問題なのか、ということです。そうじゃないだろう。
それに「実話をもとにした」ということは、実話をもとにしたフィクションということです(皇帝ペンギンが人間の言葉を話すわけがない)。それと、作者の頭の中で描かれたフィクションとどれほどの差異があるのか。私に言わせれば他人を感動させるイマジネーションを持つ作者の頭の中の方が賞賛に値すると思いますけれどもね。
創作物に触れる者の姿勢として、誰かがそう言ったらその通りのことを考えてるとか、表現した通りのことが事実であるとか、あまりにも発想が貧困で思考が短絡的に過ぎます。フィクションの中に描かれるノンフィクションが生の事実を超えるというその気概なくして、どうやって創作ができるのか。その意味において「実話には敵わない」なんて公にコメントして憚らない創作家の神経が理解できないですね。そんなだから「他人の作り話なんかにいちいち相手してられない」なんて言われるんだ、……と思っているのかどうなのか、っていう(言い逃れだという批判は甘んじて受けますが、そういうスタイルでやってるから仕方ない)。
一方でファンタジーが流行して久しいですが、これはこれでまた私は斜に構えています。全くの浮いた虚構を共通の認識で甘やかしあって、剣と魔法でらったった、ってね。もちろん、作者の溢れかえるイマジネーションを表現しきるためには設定から全て自分で作らないと表現しきれないんだ、というような傑作もあるので、全てを拒絶するわけではありませんが。
30前のヨレたギター弾きが「僕ももうすぐ30歳」などと延々繰り返すだけの
1 まあ、そう言いつつ自分も(そういう漫画の)お世話になってますけども。
2 「ヨレたギター弾きだなんて、浮浪者に言われる筋合いはない」
「あうう。フリーターと呼ばないで。ドリフターと呼んで頂戴」