2006年03月07日

デリート

 最近、周囲の人間からよく「デリート」という言葉を聞く。久々に会った高校時代の友人が、お前と、何某しか覚えていないと言って、続けて話を聞くと、卒業後に連絡を取った人間がその二人しかいないからだということで、結局のところ高校時代のことは何も覚えていないということだった。そんなはずないやろうと追及したところ、先生の名前を二、三人ぽつりぽつりと挙げたが、その表情や口ぶりを見ながら、本当らしいことが分かって私は少し愕然とした。

 また別の人間は、付き合ってた人間がいたが、別れたあと、多少の未練もあってそいつのホームページを覗いたら、つけていた日記から自分に関するものが全て削除されていたと憤っていた。腹立つからこっちも記憶をデリートしてやると言っていた。
 そして後日本当にデリートしてしまっていた。

 私は、何度か書いていると思うが、思い出すことといえば、情けないことや恥ずかしいことばかりだ。そうでなければ辛いことや苦しいことだろう。良かったことなんて、そりゃああっただろうが、いちいち覚えていない。もちろんそれらは時を経て、色んな意味で良いように変わっている。合理化されたり、美化されたり、保身としての偏見と化したり。そしてそれはごく一般的なことだと思っている。

 意図的に忘れようとして忘れられるのは一種の才能かもしれないが、そのときの自分を否定することにはならないだろうか。私は将来のために進んで恥や衝突を選んできて、それが良かったかなんてことは今になってもちっとも分からないが、そう易々と捨てる気はない。

 この年になれば、忘れたいことの一つや二つあるのは分かる。でも、あとになって、自然に抜け落ちていくなら分かるが、自らデリートしなきゃいけないようなことをやってたなんてことを認めるわけにはいかない。そんな破目をみるくらいなら、過去にがんじがらめになって動けなくなる方がまだマシだ。私はそう考える。

 捨てることならいつでもできる。もっともらしい合理化を取り繕ってんじゃねえ。
posted by LG18 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ひとこと・つぶやき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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