2006年04月21日

花鳥風月

 三島由紀夫「春の雪」を読み終えました。少し前ですが。
 感想については月並みなものしか書けそうにないので概ね割愛して、筆者の意図はさておき、聡子(こないだの映画では竹内結子が演じていた)の方が悪役として描かれてましたね。(映画の)予告編でも使われてましたが、「私がもし急にいなくなったら、清様、どうなさる?」の一言が全ての元凶です。逆にいえば、ストーリーの構造として全てこの一言に還ってくるように作られています。げに女は恐ろしき。

 さて、ヒロイン聡子は没落貴族の生まれですが、「優雅」だけは錆のように残っていて、凡庸な、というよりむしろまるでうだつのあがらない聡子の父親も、歌会だけは尋常でない活躍を見せます。それは娘の教育にも徹底していて、「和歌にならない恋は無価値だ」と聡子に刷りこむのです。これは興味深いテーマです。

 忘れてもらっては困るのですが、つゆどんは生粋の短歌ブログです。などという妄言はさておき、和歌は恋を歌う(ための)ものだ(った)と思っていた私には新鮮な命題でした。目的と手段が逆になってます。
 もちろん、それは(一時であれ)敷衍された価値観かは分かりません。古典を下敷きに書かれた小説だといっても、古典にどう書かれていたかは直接読まないことにはわからないし、位置付けとしても小説のテーマとは程遠いもので、キャラクターの持つ「優雅」を演出するための道具に過ぎません。もとより父親は常識人としては描かれていないのでなおさら(筆者個人の、それも偏った設定かもしれない)です。

 ときどきふと思うのですが、短歌というのは(俳句でもそうですが)なぜ形式が決まっているんでしょうか? 技量を問う(磨く・見せる・競うetc.)ものである。以前も書きましたが、それはもちろんそうでしょうが、それが(究極の)目的ではないはずだ。となると、やはり美(の追求)ということになろう。少なくとも私にはそれ以外に候補すら浮かばない。

 となると、やはり聡子の父親の考え方の方が本質に結びついているといえる。間違っても、和歌は自分の恋愛(の○○さ)を表現するためのものではない。より良い和歌を詠むために、自分がする恋愛の方を選ばないといけない、というのが本来真っ当な考え方なわけです。そんなことのため(だけ)に生きる、という歪んだ合理性のことを「優雅」と呼ぶのだと、「春の雪」には書いてありました。基本的に私も賛成ですね。

 現代も相変わらず恋愛を歌った歌は多いですが、はっきりいって私はこれらが好きでない。それはもちろん、私自身が現代の恋愛偏重主義に反対の立場を取るので、巻き込む形で評価できないという主観的な事情はあると思います。しかし、私は私で生粋の恋愛ブログ(あれ?)を書いているので、「恋愛を扱うからダメだ」とは思っていないはずです。
 時代の流れにも逆行して(つまり平安時代前後の貴族間で国政と並列に扱われるほどの価値観の欠片もない現代で)、それでもなお飽くなき美の追求のために、この歌を歌うためだけに私は生きてきた、この恋をした、という迫力があるか。そうでなかったら何が悪いのかって、短歌で恋愛を歌うことの意味が根本から揺らぐってことじゃないですか(違うんですかね?)。
 私みたいな素人がこんなところで歌う分には可愛い小鳥の囀りと流せようが、たとえば歌人と呼ばれるような人が、技巧やらセンスやらが格段に上乗せされこそすれ、根本的に何も変わらないとして、だから新しい道を模索するというならともかく、何ら疑問を感じないというのはどうかと思いますけどね。ましてや「耳に入り易いから」なんて、話にもならない。

 受け手に求められるものが多いという点で小説より厳しいのは事実ですが、作り手の方で折れてしまったらおしまいだと思います。それは形式を維持すべきということではなくて。
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