2006年05月19日

「この炊飯器にはタイマー機能がついてますが、米は炊けません」

 少し前に「のび太の恐竜2006」という映画がロードショーでやってました。作者である藤子・F・不二雄は亡くなっているので当然別の人が作ってるわけですが、看板を見るとタケコプターで飛んでいるのび太の髪が風に靡いている。フリづらいネタで始めたもので挨拶の間が取れずまごついているLG18ですこんばんわ。

 タケコプターがどれほどのスピードかは分かりませんが、中空を飛んでいる以上はある程度の風を受けるわけで、髪が靡くのはごく自然なことです。逆にいえば、今まで風に靡かなかったことがおかしい、といえる。スネ夫に至ってはもはやカツラを通り越してヘルメットですよ。
 しかしながら、私は不快感を禁じえなかった。それはこの絵にではなく、作画者にでもない。もちろん、なじみの深い絵を変えられたからでもない(描く人が変われば絵が変わるのは当たり前のことだ)。

 なぜ今までのび太の髪が風に靡いてこなかったか。そんなことはどうでもいいからだ。アニメの場合、技術の問題も勿論あるが、もしかしたら、作者は意図を持って髪を靡かせなかったかもしれない。それくらいにどうでもいいことだ。

 ドラえもんに限らず、今の漫画はどうでも良い詳細にこだわりすぎる傾向がある気がする。かつて私は手塚治虫の作品について詳細がかなり省かれていて、その点では完成度に欠けるという内容の記事を書いたことがある。それは風に靡く髪どころか、ストーリーの進行上必要であると思われるレベルの詳細について詰められていないと感じたからであるが、なぜそんなことになるかといえば、そんなことに構ってられないほどに描きたい中身があったからだ。

 「のび太の恐竜2006」に中身があるかないか、私は見てないからわからない。中身があれば良いというものではないし、無いから駄目だともいえない。実質に加えて形式が備わればそれに越したことはないとも言える。
 ただ、上にも書いたように、全体的に少女漫画化してるというか、例えばAが宇宙人だという事実をBが知って驚いて、そのときまだCは知らなくて、ずっと後になってCが知ったときにまた同じように驚いて見せるとか。しかも大抵そういったものは作者が望んでその状況にしているのではなく(すでに読者が知っていることを驚いて見せることに意味は無い)、話の展開上Cは知らないことになってるんだから、じゃあ驚かないと不自然だ、という、単なるつじつま合わせでしかないことが多い。ここからは主観だが、そんなつまらないつじつま合わせにコマを浪費するような無駄の多い漫画は、くだらない。それに、現実から跳躍するという漫画の出発点に矛盾する傾向であるという点からも、実にくだらない(一つの町でひっきりなしに殺人事件ばかり、それも犯人が毎回の様にちょこざいな小細工を弄するとか、指摘として無益を越えてもはや害悪だろう)。

 もう一つ本末転倒ということでいうと、「天才バカボン」という漫画で、バカボンのパパが走り回ってるコマがあって、バカボンがパパになぜ走り回っているのか尋ねたところ、パパが「コマをうめるのだ」と答えるくだりがある。
 これはバカボンパパにしかできない荒業であるが、漫画である以上、コマは絵で埋めなければならない、そうでなければ漫画である意味がない、という決まりであり誇りでもあったところがある。
 ところが最近の漫画の活字(文章)の実に多いこと。それも絵ナシで文章だけのコマとか、ざらにある。

 形式を頑なに守れというつもりはないが、なかにはそんなに文章が書きたいなら小説描けばいいじゃないか(単に絵描くのがしんどいからサボってるだけだろう)と思うものもある。短歌について書いたときと同じことだが、自分が何の為にその表現手段に拠るのか、小説なら文章、漫画なら絵、音楽なら音、その素材とどれほど向き合ったか、その特質を見極めて描いているのか、という基本的な姿勢は、もう少し問われるべきじゃなかろうか。
 漫画みたいな小説、小説みたいな漫画、漫画と小説のコラボレーション、ニュージャンルの開拓、確立。「DEATH NOTE」を西尾維新がノベライズ。大いに結構。そういった「動き」を否定してるわけじゃない。むしろ賛同だ。漫画とは何か、文章で描くとはどういうことなのか、各々の表現方法と真摯に向き合った上でのものであれば。
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