2006年06月22日

ただ僕らは、受け入れるだけの器

 ただ僕らは 受け入れるだけの身体を
 互いに寄せ その傷を舐め合った
 叶うならば 胸を焦がすような想いを
 錆びついた空に躍らせてみたかった

 ……と、これだけを読んでも、別段の感銘は受けないというのが正直な感想です。それがギターを操って、あの声で紡ぎ出されたら(コメント&PVはこちら)もう、エンドレスなわけですよ。
 重要なのは何を表現するか(内容)ではなくて、どう表現するか(手段)である。これは大学時代に会得した自分のなかでの真理ですが。
 お気づきの方も多いと思いますが、最近、といってももう2ヶ月ぐらい、他人の創作にぶら下がる形でしか記事が書けていない本屋体質のLG18ですこんばんわ。

 私はかつて小説を書いていたことがあったので小説を前提に話を進めますが、創作をするために必要なものはと問えば、時間だとかネタだとか技術だとか体力だとか、あるいはひらめきや才能だとか、大体これらが挙げられます。特に、実際に書いている人はこれらを挙げる。でも一番必要なのはそれらのどれでもない、執念です。必要性といってもいい。私には執念が致命的に足りなかったから、じきに小説を書かなくなった(本当は、書けなくなった、と言いたい)。究極的に言えば、書かなくても生きていくことができた。

 森鴎外はこの執念が足りなかったと、一部で指摘されています。私が思うに、村上春樹もそうですね。二人の共通点として挙げられるのは、訳が多いこと。訳というのは、一種の批評であり、傲慢な盗作でもある。「ただ訳すだけ」という仮定は、すでに矛盾を孕んでいる。例えば森本平の短歌などは、いわば外国語で書かれたみたいなもんだ(森本語だとかいう意味ではない。くれぐれも)。それを私が訳すといえば、大きなお世話だということになる(この場合は失礼だということにもなる)が、本質が何か異なるかといえば、異ならないのではないか。

 私は(センスの良いパロディを伴わない)「ものまね」が嫌いです。ただ純粋に似てるということに何の価値があるのか。最近は音楽業界でもカバーが流行っています。商業的な要素を差し引いて考えると、あれらはほとんどが単なる怠慢と見るべきでしょう。
 模倣と創作の線引きは容易ではありません。以前少女漫画作家が絵の流用を指摘されて実質上作品の発表差し止めを食らったときには書けませんでしたが、あの基準は本質的なそれではない(あれが問題だったとしても、私がここで言う模倣とは別の問題である)。
 それでも、小説まで届かない執念を中途半端に処理している私からすれば――訳などは公然に認められているけれども――やはり世の中パクリだらけに思われる。盗人ならそれらしくうつむいてろよ、と。

 たまに執念をたぎらせて持て余してしまうと、このように体裁も整わないものになってしまいます。こういうのを幻惑させられたという、とか言って。
 今日もこんなんで終わりかい、っていう。
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