私から言えば、そうでもないんですけどね。言葉で表現できなかったり、表現したことで反れたりすることは少なくありません。つい先日書いたことについて、気になっているので、今日また勝算もなくのこのこと現れました。
記事@
記事A
(記事Aについて)訳がパクりだとも受け取れる表現は、やはり言い過ぎです。私自身そんな風に考えているわけではありません(そういう点も含めて、あることないことを謳っている)。記事@の方で、(他人の言ならば)せめて自分のなかで完全に消化してから公表するようにしよう、とありますが、これも極論をいえば、作者の独善であって、読者の知ったところではない。
100%オリジナルの創作というのはまず考えられないわけで、誰もが何らかの作品に影響されて創作している(と考えるのが常識的な前提である)。そこで創作と模倣の線引きとして一つ分かり易いのが、他人の作品が創作にはっきり見て取れるかどうか、というところ。
ただし、その一点で判断すると、パロディは全て創作でなくなるし、短歌には本歌取りという技法があるし、ひたすらビートルズを切り貼りして作った「これが私の生きる道」は、リスペクトに値する創作であって、他人の創作を前面に出すことが技法である場合は確実にある。
となれば、「模倣」か「技法」かは、やはり作者の主観に拠ってしか線引きをすることができないということだろうか。そしてそれを受け手が誠実に汲み取れるか。
私は模倣そのものを否定するわけではない。その限りで、創作と模倣を区別することに拘泥する価値はあまりない。ただ、模倣を創作と勘違いしてる奴が無神経に芸術家面をしてるのが耐え難く醜いというだけのことで。
表現行為と自己満足は紙一重であって、表現を自覚するものならこの程度拘るのは自然かと、かように思うわけでございます。
半年かけてこの程度です。ひらにご容赦ください。