私は人の死に際してみだりに涙を流すのは愚行だ(自分が悲しむことが死者を悼むことではない)という考えを持っていて、比較的近しい人を亡くしたときもやはり涙を流すことはしませんでした。そんな人間が業務上他人である人の死に接して気をつけたことといえば、もっぱら壁にもたれて誤って部屋の電気のスイッチを切らないことだけだったのですが、いざ現場に出て驚いたことは。
時間が計ったように1時間ちょうどであったこと。
イヤ、計ってるんですけどね(笑) それにしても寸分の狂いもなく事が運ぶのを目の当たりにすると、また職員がそれを当然のこととして受け流しているところに触れると(それがごく自然だということが頭では理解できるが)、抵抗を感じずにはおれません。言うても人の子LG18ですこんばんわ。
人が死んだと聞かされて悲しむ。布団に横たわっていた遺体が棺に収められて悲しむ。出棺の前に棺を開いて悲しむ。焼かれる前に火葬場で悲しむ。骨拾って帰ってきて初七日をやるとすでに大方過去の人になっている。今までの経験と「段取り」が全て同じで、他人のことながら本当に悲しんでいるのか怪しいものです。
生き残る側の理屈であるということを当然の前提として、若くして人を亡くすのは不幸だといわれますが、もっと不幸なのは年をとってから人を亡くすことです。私は臆病だから死に損なう気がするのですが、時間引っ張って葬儀社や火葬場を困らせる骨のある知己に見送られたいものです。
大切な人は、命と引き換えであっても自分が見送る側でありたいものだが。
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仕事をしていると、段々と、人の死に関する感覚が麻痺してきます。
ただ、それじゃ駄目なんですね。
自分にとっては仕事でも、遺族にとっては、近しい人が亡くなっているわけなので。
今の「抵抗を感じる」気持ちを忘れないように。
あと、一応、個人情報なんで、故人の本名は伏せておきなされ。
私に限ってそんなことはありません、なんて言っている奴が一番危ないんですよね(笑)
>個人情報
あることとないことは境なく混じっております。本文に書いたような人は存在しませんので、あしからずご了承ください。