変なところで義理堅いLG18です、こんばんは。
例えば付き合ってる彼(女)がいたとして、その彼(女)が二回連続でデートの約束をすっぽかしたとします。で、三回目、「今度こそ行くから許して」と言われて行ったら、(やはりというのか、まさかというのか、そこが一つの価値観の分かれ目ですが)すっぽかされた。さすがにキレて別れを切り出したら、その彼(女)が泣きながら「待ち合わせ場所に行く途中で偶然会った友達が通り魔に刺されてたから(行けなかった)」と言ってきたとします。
あなたはその彼(女)の言葉を信じますか?
私は信じました。
ただし、これは例え話なんで、相手からの「刺された」という言葉以外は実際私が経験したものとは違います。ただ、実際に経験したことを書かない理由は、ここで書くことは憚られるようなものだからです。彼氏彼女の事情がどうのこうのだなんて類のなまやさしいものではありませんでした。
それでも私は信じました。
「刺された」というキーワードから想像してもらうしかないのですが、友人知人からはことごとく「それはありえない」という内容の返事を頂きました。
私は自分が信用した人間としか人間関係を築かないタイプの人間です。信用できない人間しかいない(あるいはそもそも他人など信用できない等)と自分がそう判断するのであれば、友人などは作らないでおくべきだと思ってます。ただ私は弱い人間だから、信じるに足りる他人を探しだして、その人と関係を築かないとやっていけない。これが私の思考モデルです。「LG18の作り方」みたいなものです(笑)
それ自体よく他人から反論されるのですが、それはまた明日にでも書くとして。
こういう人間が先の例にあたった場合、どう考えるかというと、一度自分が信じ(ると決め)た他人の言動について、いちいち疑うのはめんどくさい、となります。すなわち、誰かが刺された事実が実際にあったのかなかったのかは、私の考える対象にはならない。要するにどうでもいい。自分が信用した人間がそう言ってるのだから、それを前提に考えるしかない、と。
友人にそう話した後、「調べる気もないのに疑ったところで意味が無い。(人間関係においては)信じるのが楽でいいよ」と続けると、「最初から誰も信じない方がもっと楽ですよ」とさらっと返された。思わず返す言葉につまりましたが。
自分とかけ離れた考えを持つ人と話をするのは、非常に楽しいです。
他人を信じることは美徳ではありません。先に書きましたが、ただ自分が弱いからそうせざるを得ないというだけのことです。
信じるということは、自分のなかで完結する行為であり、かつそれ以上の意味をなしません。その事実を忘れないでいれば、失敗するということは(論理的に)ありえません。
でも、水野晴郎じゃないけど、他人を信じるって、ホント、おもしろいもんですよ。
「だまされる方が悪い」という言葉がありますが、LG風に言いなおすとすると、「信じる方が悪い」となります。