2005年07月30日

与えるのが愛情なら、受け取るのも愛情。

 むかーしむかし、それはそれはうつくしいアイドル歌手がおったそうじゃ。

 …というくらい昔のことのように思えるのですが、愛されるより愛したいと歌っていたアイドルがいました。その頃私は(今もですが)女の子にモテず、ろくに話も交わせないような学生でしたが、その感覚は共感できるものがありました。

 たとえば、自分が好きだと感じた他人に対して、その想いを伝えることは実に容易いことです。ただ自分の思うとおりのことを言えばいいだけです。
 告白だけではありません。たとえば付き合ってのち、好きな相手の好むものを聞き出して、誕生日にプレゼントをする。好きな相手の行きたいところへデートに行く。煙たがられたら会うのを控える。浮気が発覚した相手を許す。全て自分から発している感情で、他の人はともかく私にとっては全て容易いことです。(許すことも)愛していれば簡単なはずです。

 問題は、だからといって受け取る側が愛情として受け取れる(=幸せ)かということです。

 与える方(仕掛ける方)は自分から矢印が出ているから、想い(矢印)そのものに違和感というのか、食い違いはないはずです(図1)。けれど、受け取る方(仕掛けられた方)は、相手から矢印が出ている(図2)から、自分の基準で受けとって良いのか分からない。あるいは自分の基準で受け取ると食い違いが生じるとでも言うんでしょうか、そういうことが生じるはずです。これはやりづらいように思われます。

 (図1:自分→相手  図2:相手→自分)

 とすれば、自分の好きな相手の、その(本来)受け取り難い愛情(=矢印)を受容しようとすることもまた、愛情なのではないでしょうか。
 私も書く側の人間ですが、ブログにしても小説にしても、書きたがる人はたくさんいるけれども読みたがる人はなかなかいないとよく言われます。何をそんなに他人にひけらかしたいのかという切り口はひとまず置いておいて、発信することの方が(本来は)容易いんですよね。いや、言いたいことが言えるなら何の苦労もないさと声を震わせながら絞り出す人もいることは知っているつもりでいますが、それはまた別の問題であって、私の言っていることと矛盾することにはならないと考えています。

 そこで私は(与える側が過剰になりがちな傾向に鑑みて)、与える側にも受ける側への「配慮」(それは徒労に終わったり、また逆効果になることさえあるだろうけれども)が必要であろうと、そのように考えています。だからマスコミにうるさかったり、あんなことを言ったりするんですが。しかしそれらの配慮は単なる自己満足であることを忘れてはいけません。自分が相手に送りつけた「配慮」を、相手にとっても「配慮」であることを強要するくらいなら、始めから何もしない方がましです。まぁ、私の場合はそこから「私のことが好きなら浮気しないで」などという女は愚にもつかない、というところまで飛躍しますが。
 ビリなしではトップはありえないのだと言われることもありますが、受け取る側なくして与える側はありえない。恋愛にしても日常生活にしても、特に自分のような発信専門の人間にとっては、常日頃忘れてはいけないことだと思います。

 そのアイドル歌手は玉手箱を開けてしまい、あっという間にお爺さんになったとさ。

 おわり。ファンの方、怒らないで下さいね☆


posted by LG18 at 23:53| Comment(1) | TrackBack(0) | 思うこと・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 こんな、「らしい」ことを書くときは……。恒例になりましたがこちら(http://itai.seesaa.net/article/5492641.html)もどうぞ。
Posted by LG18 at 2005年07月31日 00:27
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