2005年08月16日

「壇」は死なず、ただ居座るのみ(邪魔だ)

 ○島易断の暦が先日発売されたのですが、表紙に「著作権所有」て書いてあります。小さい字で。これは返り討ちを食らう(私自身が無知を晒す)結果になるかもしれないのですが、権利を所有するってどういう意味なんですかね? たとえば「甲土地所有権を所有している」とかって、何を所有してんの? って感じです。
 権利は帰属するものです。少なくとも私は試験ではそのように書きます。スランプがブランクになりつつある受験生LG18ですこんばんわ。厄災に水をさされた形になりましたが、傷も大方癒えたことですし、再び勉強を再開することを宣言します。

 さて、ここ最近はもったいないことにこのへたれブログにプロの歌人の方が複数訪れてくださっているようなので、せっかくなので歌のことを書いてみようと思います。

 
 これは私の親友の言うことなのですが、その人は(現在において、昔の言葉で作られる)俳句を認めないと言います。
 親友「だって、今実際に使われない言葉で表現するなんておかしいじゃないか」
 私 「『なり』『けり』とか『き』とか『む』とか(助詞)を使うな、と」
 親友「それだけじゃなくて、基本的な姿勢として今用いられる言葉で表現しきるべきだ。仕方なしに(意図があって)、というならまだ分からないでもないけど、とくに俳句なんかは殊更に昔の言葉を使えば箔がつくっていう感じがあって、何考えてんかと思う」
 私 「うーん。じゃあ柿本人麻呂はだめか」
 親友「そうじゃない。柿本人麻呂は(その当時)『古語』で歌ったわけではないんだから」
 私 「なるほど。じゃあ伊藤園のはOKなわけね」
 親友「まぁ自分にセンスが無いだけかもしれんけど、あれはあれで(何が評価されてるのか)意味わからんし、そもそも新しくも何ともない(それが自然な流れだという意味で)けど、その意味では問題はない」
 私 「まぁでも、昔の言葉でないと表現できないものかもしれんよ?」
 親友「いやいや。現在の事象を昔の言葉でしか表現できないなんて単なる怠慢だ」
 私 「ふむ」
 言われてみれば、三枝の千を越える創作落語は現代語です。

 評論家のようにうまくロレツが回りませんが、要するに言葉は生物であって、自分が現在に生きて作品を創る以上、未来に向かって普遍的な現在の言葉を綴る努力をすべきであって、過去の遺物を引きずって体裁を整えようとは愚にもつかない、ということでしょうか。
 私もその親友も、短歌はもとより俳句となるとさらに読んだ数は少なく、これは推測ですが恐らく現代語で綴られる作品が増えているであろうと思います。それでも時おり新聞などで目にする作品の中には、(親友の言うように)殊更に古語を用いて、もはや何が書かれているのか一見して言葉の意味がわからない作品が高い評価を受けている、ということが確かにあります。

 私は昨日まで知りませんでしたが、俵万智みたいな歌を(一般に)ライトバースというんだそうです。訳すると「軽薄派」といったところでしょうか。(東急ハンズ等の)素材も含めて「軽薄」な作品群が当時の歌壇、さらには世にすんなり受け入れられたのは別の歌人の礎としての活躍があったからだとエライ人が難しく書いてはりましたが、ともあれ私達一般人にとっては現代語で書かれた作品の方が身近に感じることは事実であり、またごく自然なことです。

 たとえば小説であれば、単純に、ごく単純に考えて三島が重厚だとすれば椎名誠は軽薄だということになります。でも短歌において俵万智が軽薄だといったとき、重厚なものとして想定しているのは恐らく正岡子規はじめ啄木牧水ほか、要するに古語で詠んだ歌人を指しているものと推測されます。ここには根本的に差異があります。
 個人的には悲しく感じていますが、もはや現代に「文壇」は存在しません。一言でいえば、その価値を支える土台が存在しないからだと私は考えています。森鴎外は、少なくとも私の生きているうちに再来することはないでしょう。私は古語で書かれる森鴎外を待っているであろうから。
 一方、「俳壇」というのは、(私は見たことはないが)恐らく存在するのでしょう。それは小説や短歌に対する反動もあったと思いますが、未だに当時の価値基準を土台に保っているからだと。ごく大雑把に言えばそういうことになると思います。
 歌壇は文壇と俳壇の中間ぐらいに位置するんでしょう(素人のたわ言なんでまともに相手しないで下さい)。森本平は異常視されるだろう(とくに歌壇の人間からは)けど、綾辻行人ならそんなことはない。中身が違うだなんて言ったところで、誰もそんな大事(と書いてどうでもいいと読む)なところは見てやしないんですから。

 結論としてうたは時代に遅れをとっているということになる(以前に書いたように、小説も遅れていると捉えているからなおさらである)わけですが、問題はそこではなくて、ことさらに時代に遅れていることを評価しようとする姿勢にあるわけです(原因はそう単純ではなく、後に書く5・7・5(+7・7)を保つためであるとか、俳句であれば季語がいるとか、いろんな事情が複雑に交錯しているということは確かですが、結局言い訳にすぎない)。親友が言いたいのはそんな化石みたいな連中は相手にしてられないということなのでしょう。(そういう姿勢(私がだらだら書いたことも含めて)が真っ当なのかをこの機会に歌人の方にコメント頂ければありがたいです)

 ここからは私の意見ですが、時代の波にも風化しないうたの生命線(同一性)は5・7・5(さらに短歌であれば7・7)の形式であって、古語でなければならない必然性はない(もしそうなら現在新たに作品を創るべきではないと思う)。そしてその形式をあまりおろそかにしすぎることに対しては「歌じゃない」との批判を加えることも一理あるとは思いますが、まぁ尾崎山頭火という人もいた(いねぇよ)ということ以外に、これまでの言葉とは違う(乱暴にいえば、本来「歌壇」が存在する土台がない)現在において、新しい形を模索するためにあえて型も含めて新しいうたのあるべき方向を模索する人間が一人二人いたとしても、それはそれで自然な流れであり、それを応援こそすれ後ろ髪をひくような真似をすると人がいるとすれば、その人は本当にうたを愛しているのか疑問に感じざえるを得ないですね。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/5968026

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。