2005年08月29日

「追憶の一週間」のトリ

 これまで書いたこと、これから書こうとすることは、ともすれば誤解を招くことになると思います。先に弁明しておくと、たとえば宮崎駿監督の映画のほとんどは少女が主人公ですが、これを根拠にその人個人を少女偏愛者とイメージするのは誤りです。もし仮にそうだとすると西村京太郎氏(はじめ推理作家諸氏)は殺人鬼(に憧れる人)とすることになるが、そんなわけはありません。当たり前じゃないかと言われそうですが、お笑い芸人は普段から(仕事中と同じように)明るいとか軽いとかいうイメージを多少なりとも持っている方はよくよく注意です。何が言いたいかというと、「んなこと分かってるよ」という人ほど注意が必要だということです。これはもちろん私のたわ言に限ったことではありません。
 要するに、仮に私が毎日ここで恋愛のことしか書かなかったとしても、毎日そのことばかりを考えてるというわけではないのはもちろん、御旗を掲げて声高に叫んでいると思われているかもしれない「恋愛論」と、私個人の実際の恋愛(観)は必ずしも一致しないということでもあります。

 何をしていたかというと、前にも少しだけ書いたかすかな別れを漂わすこともなくメール一通で絶縁を告げてきた女が探しているという俳句をWEBで探したけど見つからん! 通りすがりと称して未練とも嫌がらせとも偽善ともつかない情報提供作戦が失敗に終わり、行き所のない憤りがどうにも処理しきれんのであります。ここ半年以上その女のことはきれいさっぱり忘れていたのですが、昨日だか一昨日だかに倉ヨエなんか聞いたからおかしくなってしまったのだ。たぶんそれも半年以上振りかと。

 以前名言で挙げた次点の歌詞「ああ 化粧箱に映った女には ああ 清く正しい過去はない」の解釈ですが、言葉通りの意味に加えて「清く正しく美しく」という某歌劇団の標語を元にしてるのは明らかであり、(清く正しい過去はないけど)美しい過去ならあるということです。さらに一歩踏みこんで、美しい過去が鏡に映るということは、美しいのは過去ばかりだということを暗示しているわけです。これを先の言葉通りの意味と重ねると・・・。

 これ以上書くとつまらないので。

 以後も現れる「かもしれない」この女、私の恋愛対象ではありません。じゃあなんで拘るのかというと、そうだから逆に…というのと、私が湖面だとしたら岩を投げてくれる人だった、というか。石を投げてくる人ならそこらにいるんですけどね。

 いまさらどうなるわけでもないしどうするつもりもありませんが、終わった後というのは始まる前よりよほど厄介で下らないものです。ロストボールはゴルフ場に占有が移ります。判例で確か。
posted by LG18 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日常・全般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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