2007年01月28日

While you are sleeping

 先日、仕事をサボって裏でテレビを見てました。何気無くチャンネルを回していると、国会中継で首相が所信表明演説をしている。何となく聞いていて、ふと思い当たりました。

 なぜ有権者(とりわけ納税者)の大半がテレビを見られない時間に国会を開くのか。

 私に推測できる答えは3つ。
  @ 見られたくないから
  A (納税者のことを)何も考えていないから
  B とりあえず皆働いてるから自分たちも働いとかないと(文句言われる)
 このほか思いつかない理由もあるでしょうが、共通して言えることは、どうせろくな理由じゃないということ。年金生活者は見られるだろうが、老い先短いし、耄碌しとるし、なにより、彼らの利害と政治家たちの利害は概ね一致する(「(自分が死んだ)あとは野となれ山となれ」)から大きな問題にならない。
 よく「問題を先送りにする」という言い回しが使われるが、それはこういうこと。

 「腹話術の人形みたい」とはよく言ったもので、口をパクパクさせてカンペを棒読みしているだけだ。どうでも良いけど。
 そう、これがいかんのだ。どうでも良いと思うから、現役の納税者たちは唯一の権利行使たる投票を放棄して、思うがままに敷かれるのだ。……と、一応言うだけ言っておきます。

 嫌になってチャンネルを変えるとアリ○の宣伝。消費者金融のCMが頻度、内容ともにややトーンダウンしたかと思ったら、ア○コアリ○ア○コ○リコ。
 感情でものを言っても始まらんので、一点だけ。
 「ホッとする保険」というコピーで売っているが、ホッとできない保険は、保険なのか? それをわざわざ言うということは、自分たちが(真っ当な)保険会社として認識されてないという自覚があるからだろう。その認識を払拭する手段としては、むしろ逆効果じゃないのか。「自分を信用しろ」なんてあれほど頻繁に言う奴を信じられるものだろうか。
 かわいそうなのは従業員だ。あれだけ宣伝に使う金があるなら自分たちの給料もうちょっと上げてくれと、思わない方が不自然だ。

蛇足
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2007年01月20日

信じるということは(4)

 「20世紀少年」という漫画を読み始めたのはちょうどこの仕事(葬儀屋)を始めた頃だったと思うので、「ともだち」と友人葬が繋がるのは、そう難しいことではなかった。友人葬というのは創価学会の執り行う葬式の呼び名です。漫画の話は私がするより読んでもらったほうが早いので、「ともだち」は「友民党」なる与党を組織しているとだけ書いておきます。この作者は某大物歌手も好かんのでしょう。

 知識としては知っていたが、先日初めて友人葬をやりました。尋常じゃない。大の大人が数百人集まって、小一時間両手を合わせて「南無妙法蓮華経」と唱え続ける。隣で別の式をやってることなんて全くおかまいなし。焼香に案内しても歩きながらお題目を唱える。ただし統制が取れているというのか、こちらの言うことには比較的素直に従う(もっとも、黙れと言っても黙らないだろうが)。
 私の目がおかしいのかもしれないが、彼らの目は、おかしい。やたらに瞳に力があって、視界が極端に狭い感じがする。「20世紀少年」という漫画はどちらかというと好きではないが、あの目は良く描けていると思った。

 信じることの強さを儀式という象徴で目の当たりにした。彼らは年収が300万無くっても、一生バイトで肉体労働でも、文句を言わずにせっせと公明党に票を投じるだろう。何かを信じることは生きるために必要なことだと思うが、どうせならもう少し実体のあるものを信じたい。たとえば金の方が、まだしも実体的じゃないか? 私は金の亡者じゃないけど。

 くれぐれも断っておくが、私は創価学会を否定しているわけではない(そのレベルになれば、否定するのも肯定するのも同じことだ)。宗教勘の鈍い日本人から見れば異質であっても、宗教そのものとして特に異質とは思われないからだ。その意味で、宗教そのものに、否定とは言わないが懐疑的であると言えるかもしれない。
 そして、私の言う宗教とは神に祈るものだけを指すのではない。納豆がダイエットに効果的と聞くや、飛びつく。誰が言ったかと問えば、テレビが言ったという。占いもそうだ。
 どうせならもう少し、実体のあるものを信じたい。私はそう思う。

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おまけのつもりが〜信じるということは(5)

 神様の存在は人間が編み出したことの証明が、一つある。信じる者は救われるということ。
 「信じる者しか救わないセコイ神様拝むよりも〜♪」と歌った歌手がいたが、誰のために信じる者のみを救うかといえば、信じる者のためだ。つまり人間だ。信じない者が救われたのでは、信じる者が救われない。神様は信じるものしか救ってはいけないのだ。神様が実在しようがしまいが、そう決めたのは人間なのだ。

***

 友人は、(日本人の)宗教に対する猜疑心には、世代により程度に差があるように思うと言った。私は「そんなことはないだろう」と考えずに応えたが、考えてみると差がある。
 私の母は「昔は良い時代だった」が口癖だ。何もしなくても春になれば給料が2割増で、社内での定期預金は利率8%。限度額は300万だが、年に1度24万円もらえるのだからちょっとしたボーナスだ、と。
 ちょっとした、どころか、物価と近況を鑑みれば、立派なボーナスだ。確かに良い時代だ。私には想像もつかない。
 話が飛躍するが、この頃は、(日本の)社会全体に通じるものがあった。良く言えば「秩序」だろうか。忍耐や労働を美徳とするものも、その一つだ。団塊の世代が横一列の教育を受けて育ったことも無関係ではないだろう。端折って言えば、この頃の日本人は共通の宗教の上で「良い時代」を過ごしていたと言える。大義の下である程度自分を抑制することを是とする人間ならば、特定の宗教に対しても(そういう土台のない)我々以下の世代よりも抵抗感が若干たりとも薄いのは当然だろう。

 私は宗教が信じられないから不安定な人生を送っているが、別に不幸とは思わない。さらに利口とは思わないが。
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2006年11月03日

生き延びる知恵

 あるとき知人に「紙幣って、改定するたびにどんどん安っぽく、薄っぺらになっていくなあ」と話を振ったところ、「使えりゃ何だって良いやん」と言われたことがあります。私の投げかけに対して肯定するでも否定するでもなく、話題を広げたり、あるいは転換しようという気もない、無関心そのものの受け答えにいささか呆れた記憶があります。

 今、いじめの問題が盛んに報道されていますが、一連の全てに関して、私は肯定も否定も抱かない。報道が煽ってると言ってみても根拠はない。あるいは、誰だって思い悩む時期はあるものだと十把一絡げに否定したところで、首を吊った、あるいは吊りかけた子供の心境が分かるわけではない。たとえ私が首吊り縄に手をかけたことが一度や二度でなかったとしても。

 長くてもたかだか十年我慢すれば、オフスプリングの「THE NOOSE」なんか思い出しながらアメリカっぽい(AMERICANA)なぁ、なんてバカなことを考えて傍観(無関心)を決め込んで、欲しいジュースぐらい好きに飲みながら行き帰りできるのになぁ、とは思いますが。

 どうせそう遠くない将来死ぬんだから、わざわざ死ぬこともあるまい。
 どうせ死にたい理由なんて、くだらないことに決まってるんだ。自分が考えるものだもの。
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2006年10月02日

それはあなた自身の倫理ですか?

 赤い羽根募金で駅の改札の前に人が立ってますが、あれは「腎臓売れ!」と怒鳴る消費者金融よりも心にダメージを与えられる方法ではないだろうかと思います。人の良心に訴えかけてくるわけですからね。
 募金する金がなく、席を譲る身体もないLG18ですこんばんわ。およそ人に譲れるようなものを持ち合わせていない。地べたに座るほど誇りを失ってはおりませんが。

 さて、腎臓と引き換えに金銭と車を渡したことがえらく取り上げられていますが、そのことがそんなに問題なんだろうか、と不思議に思っています。法律学では表現の自由とわいせつ物頒布禁止(「被害者のいない犯罪」などといわれる)などが問題となりますが、禁止する理屈は倫理以外にない。
 腎臓のニュースについて、キャスターやでしゃばりが生真面目な顔で「金で命が買える世の中はおかしい」などと言うのを何度か聞きましたが、その命題が@倫理足り得るか、倫理だとして、A倫理のみをもって法的に規制する根拠足り得るか、Bあてはめの段階で、腎臓が「命」とまで言えるか、C仮に認めた場合、どのような問題が生じるか。
 それらをきっちり考えたあとでも、あんなに騒ぐのは遅くないんじゃないかと思うんですが。

 私は、本音を言えば、@からCすべての段階で切れると思っています。
 @から順に、金で命が買えるといっても、新しい命ではなくすでに存在する命(を保つ点)については、問題ない(というより昔からそうじゃないか)と思うし、Aについても、倫理以外に根拠のない命題で法規範を定立させることは非常に危険だと思います。(――法律は誰もが納得できるものでなければならない。ということは説得できなければならない。説得するためには理屈が通ってないといけない。だから法律は筋の通った根拠がなければならない。倫理には筋の通った根拠はない。)B心臓や脳、あるいは肝臓、膵臓あたりが売買されたというならともかく、腎臓は2個あるわけだし、透析という技術も考えると、「命」は誇張だと考えられるし、C自分の意思で自分の腎臓を売ることに何か問題があるだろうか? 他人(消費者金融など)に強制される(人身売買など)というのは、別の問題(傷害罪、強要罪、脅迫罪、etc.)だろう。今回の問題で悪い点があるのはただひとつ、法律違反であるという点のみだと思うのだが。
 男女の産み分けの禁止、クローン人間の研究の制限あたりは概ね賛成(但し理由は異なる。人間の子孫繁栄に支障を来す恐れがあるから)ですが、これは分からない。
 
 生のために金を積むことに倫理をさしはさむ余地は無い(何が悪いのか)と思うのですが。ブラックジャックの読みすぎで頭がイカレてしまったのかねえ。
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2006年08月24日

届かないのは理由がある

 ジェンダー【gender】: 社会的、文化的に形成される男女の差異。男らしさ、女らしさといった言葉で表現されるもので、生物上の雌雄を示すセックスと区別される。

 ジェンダーフリーというのが、何度聞いても分かりません。
 テレビでおばさん達が、がなりたててる。
 両足をおっぴろげて、ツバ飛ばしてがなりたててる。
 「ジェンダーフリーを履き違えてる」と言われてる。
 やっぱりよくわからない。

 結局のところ、女性の社会進出の是否如何について述べたいだけのよう(に理解している)なので、それに絞ってコメントしますが。

 人には適性があると思います。@仕事をするのが向いている人、向いていない人(個人→社会の適性)。A社会で求められる人、求められない人(社会→個人の適性)。B仕事がしたい(好きな)人、したくない(嫌いな)人(個人の気持ちの問題)。適性というと@のみを取り上げることが多いが、ここでは@ないしB全てを適性と定義します。
 私はこの適性に沿って仕事をするかしないか選択するのが理想だと思います。勿論、経済的事情によって適性に関わらず社会へ駆り出される(私もそうだ)のが一般だが、個人個人がしたいようにできれば理想だと思う。その程度の意味で言ってます。
 恐らくジェンダーフリーを叫ぶ人達は、女性のAについての不遇を改善すべきということを主張したいのだと思います。それ自体は正論ですが、私が分からないというのは、主張する人達がその点だけを主張していることの理由が分からない、ということです。

 たとえば、論者の多くは女性の社会進出をヒステリックに促すわけだが、ジェンダーフリーの発想は、「女なんだから家にいろ」という考えを否定するのが本来であって、「女であっても社会へ出るべきだ」という積極的な(というより強制的な)働きかけとは関係がない。まずそれがわかっていないように思えてならない。
 ジェンダーフリーの着地点は、女であっても社会進出を自由に選択できるという点であって、女性の社会進出が実質義務化されれば、それはアンジェンダーとでも言うべきものであって、針が逆に触れただけで何も改善されてはいない。
 そうはいっても、男が働くのは実質義務に近いもので、その反動として女性の社会進出が抑圧されている(側面がある)んだ。それを打破するためには女性の社会進出を今の男の状態と近いものにしなければならない。そうすれば男女の地位が対等になって……とでも言うのだろう。なんと短絡的でヒステリックな論理か。

 何度も言うように、ジェンダーフリー(あんた達が言ってるんだぞ、全く)というのは、男も女も同じように、自分の人生の選択として社会進出を自由にできるのが着地点だろう。ならば、女性が自由に社会進出を選択できるようにするためには、男性もまた、本当の意味で自由に社会進出を選択できるようにすることが必要じゃないのか。
 働く女性が増えれば必然的に人が余って、吐き出される者は男になるから、それでバランスが取れるように傾いていく、なんて馬鹿なことをいってはいけない。ホームレスも自殺者も、男の方が多いんだ。それは男が「生きてる限り働かなければならない」という枷を強いられるからだ。この精神的なものを取り払う努力をしなければ、ジェンダーフリーは達成されないだろう。

 ジェンダーフリーというのは、本来の形で達成されれば、男にとっても荷が降りて有益なものである。(今まで虐げられていた)女のために男は耐えろ、という発想は、単に感情的な復讐であって、将来に何も残しはしない。
 そういうものの見方をしないばかりか、理解する素振りすらまるで見せないから、「ジェンダーフリーを言い訳に――」といわれてしまうのだ。男だろうが女だろうが、社会に出たくない人はいるのだし、それを社会が受け入れることの重要性(つまり、40年前頃、30歳過ぎて結婚しない女性を非難してたのが現在失われたのと同様に、30過ぎても働いていない男性を(経済的視点は別としても、社会的視点から)非難しないということの重要性)を見落としてはならない。本当に達成したいと思うならね。

 そもそも、ジェンダーフリーという言葉を女性(というか自分個人)の社会進出に限定して使っている時点で、既に意味は違っているし、達成できるはずもないと思うよ。

 参考記事@
 参考記事A
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2006年08月10日

恥を知れ

 この国はどうなるんだろうか、という言葉にもはや力は感じられなくて、逆に自堕落な腐臭すら立ち昇りますが、そういう想いは無駄ではないと思います。「最後まで、希望を捨てちゃいかん」神々妙々LG18ですこんばんわ。そんな言葉はありません。

 今から三、四十年前は、日本各地で学生運動が起こっていました。方向性ややり方に問題があり、暴徒も少なくなかったとはいえ、国を憂う気持ち、とまで言えなくても、自分個人の矮小な欲求のため以外に使うエネルギーに満ちていたということは言えると思います。私には国家論は分からないし、対象は国に限る必要はない。ただ、自分の持てる力を自分(の利潤)以外の為の、もっと大きな対象に振り絞ろうという気概が足りない気がします。それは例えばブログ一つとってもそうなんですけども

 もちろん、地球規模の視点でものを考えて日々を過ごしている人や、まっとうなボランティア活動を行っている人もたくさんいる。でも、それらの気炎が高まって、社会的影響を及ぼす規模にまではなっていない。
 なんでもかんでもこの世の全てが金がらみ。私が見てきた日本はそうだ。地獄の沙汰も、というのなら――。若者はパチンコジャラジャラ、メイド萌え萌え。燃えもしない油だけをその腹にでっぷりとため込んで。

 殺すに値する政治家がいないことが確かだとしても、それが豚のような生活を送る理由にはなるまい。もっとも情けないことは、かくいう自分もふくれた腹を抱え口を拭うことしかできんことですがね。親(の生きた時代)の脛をかじって。
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2006年06月27日

逃げられないテーマらしい

 このブログを知る友人はもとより、これを読んだことのない友人からも言われます。「お前は思ったことをすぐ口に出せて良いよな」誉められてるのかどうかは微妙なところですが。「お気楽・適当・LG18」読者のみなさまこんばんわ。

 私から言えば、そうでもないんですけどね。言葉で表現できなかったり、表現したことで反れたりすることは少なくありません。つい先日書いたことについて、気になっているので、今日また勝算もなくのこのこと現れました。

 記事@
 記事A

 (記事Aについて)訳がパクりだとも受け取れる表現は、やはり言い過ぎです。私自身そんな風に考えているわけではありません(そういう点も含めて、あることないことを謳っている)。記事@の方で、(他人の言ならば)せめて自分のなかで完全に消化してから公表するようにしよう、とありますが、これも極論をいえば、作者の独善であって、読者の知ったところではない。

 100%オリジナルの創作というのはまず考えられないわけで、誰もが何らかの作品に影響されて創作している(と考えるのが常識的な前提である)。そこで創作と模倣の線引きとして一つ分かり易いのが、他人の作品が創作にはっきり見て取れるかどうか、というところ。
 ただし、その一点で判断すると、パロディは全て創作でなくなるし、短歌には本歌取りという技法があるし、ひたすらビートルズを切り貼りして作った「これが私の生きる道」は、リスペクトに値する創作であって、他人の創作を前面に出すことが技法である場合は確実にある。
 となれば、「模倣」か「技法」かは、やはり作者の主観に拠ってしか線引きをすることができないということだろうか。そしてそれを受け手が誠実に汲み取れるか。

 私は模倣そのものを否定するわけではない。その限りで、創作と模倣を区別することに拘泥する価値はあまりない。ただ、模倣を創作と勘違いしてる奴が無神経に芸術家面をしてるのが耐え難く醜いというだけのことで。
 表現行為と自己満足は紙一重であって、表現を自覚するものならこの程度拘るのは自然かと、かように思うわけでございます。

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2006年04月25日

最も危険な日常

 私はほとんどテレビを見ないですが、今日はJR西日本の脱線事故から1年というので特集が数多く組まれていたことでしょう。すなわち、忘れてはいけないということをマスコミが騒ぐ。被害者やその遺族が和解に応じていないというのも、ひとつにはそれもあるでしょう。過去に社会問題となった公害も、今では「四大公害」なんて言い方はしないそうですね。しないというよりさせないと言った方が良いかもしれない。和解に応じると、なかったこととしてもみ消されてしまう。

 阪神大震災にしても去年の脱線事故にしても、私は比較的近いところに住んでいるから、その意味での経験として忘れることはないでしょう(地震のときはかなり揺れたけれども)。でももし遠くに住んでたら、まず無関係だと思っているでしょう。正直なところ。皆がそうだなんて無責任なことは言えませんが、まあ多数の人は似たりよったりだと思います。でなければマスコミが正義面しても歯牙にもかけ(られ)ない。

 忘れないということは重要なことだと思います。ただ忘れないだけではしょうがないですが、他人にできることの限界を考えれば、無下にはできないだろうというのが私の考えです。だから、今回の報道や特集を一概に非難するつもりはありません。ただ、明日になってチェルノブイリの原発事故から20年だという報道が、どのくらいの規模でなされるかが不安です。

 チェルノブイリの原発事故は、私の知る限り人類史上最悪の人的災害です。広島に落とされた原爆の700発分とも言われてますが、正確な被害の規模は未だ明らかにされていないような有様です。私個人の見解(憶測)ですが、WHOが死者9千人と発表してますが、確実に1万人を超えていると思います。この事故については明日、繁華街へでも出ていって、一日中スピーカーで訴えるぐらいの価値があると思います(私はやりません)けどね。
 原子力発電っていうのは、それほど危険なものなんだ。「二酸化炭素を出さないクリーンなエネルギーとして、注目されています」(関西電力CM)なんて、馬鹿言っちゃいけない。危険性はおろか、放射性廃棄物という、非常にダーティな副産物出まくりなことすら一言も触れないで。

 なかには日本の原発がときおり起こす事故ぐらいだとしか思ってなかったりする(もちろん日本の事故も危険だけど)人もいるし、その年生まれた子だってハタチになってるわけだから、(日本では)風化していってる。
 20年ということに意味はない。言うんなら毎日言わなきゃいけない。それが筋というものだ。だけど、せめてそういうときぐらい言わないと、本当に忘れてしまうだろう。言い方は悪いが、まだ1年しか経ってない事故のことを忘れてる奴は少ない。20年も前の、しかも日本にとって外国の大惨事に比べれば。でも、JRの事故とは比べものにならない数の人が死んで、放射能汚染に苦しんで、白血病になって、今なお救いの手は伸びない。これを「そんなもん知るか、俺は友人を去年の事故で亡くしたんだ」と言い出したとしたら、これは悲劇じゃないだろうか。
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2006年03月21日

大逆転の一打、……判定は

 とうとう結婚論が書けなかった、と思いきや、丸一年前に書いたものが発掘されたので、体裁を保つべく都合良くそれを 掲載したいと思います。

 実際のところ、私はこの記事をつゆどんに載せたものとばかり思っていましたが、それよりも前に書いたものだったという。けっこう驚いています。

 前置きはこのくらいにして、青さあふれる本編をどうぞ。

 本編を読む
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2006年03月20日

死について語ろう死を語り合おうお前を殺して皆で語ろう

 ついに私に誠意を要求するバトンがつきつけられる幸運な機会が私を捕らえて離さない。その名は「死のバトン(死神バトン)」
 「早速に。早急に、かつ迅速に。明日死ぬまでに、死神バトンを。」これが標語らしいです。

 Q1・あなたはどんな風に死ぬと思いますか。(推測)

 分からない。
 不幸なことに、高校や大学の受験前後をピークに、死に対して考える機会に私は巡り合わない。それは決して厭戦気分とか自殺願望とか、漢字四字で表せるものではなくて。そのときですら(自分が死ぬことについて具体的に考えることはあっても)どんな風に死ぬかということまでは考えが及ばないでいた。
 この質問に答えられない人間は生きていても仕方ないと思うけど、答えられないんだから仕方ない。

 ダイヤルQ2・あなたはどんな風に死にたいですか。(希望)

 最愛の人を守ろうと自ら盾になって銃弾(凶弾?)を受けるも、あえなく貫通して最愛の人もろとも死亡。

 「危ない! キャサリン!」
 「ボブ!」
 「キャサリーン! ぐわっ」
 「ボブ!」
 「キャサ…… 君を、愛していたよ」
 「ボブ……あたしもよ」
 「キャサリン!? どうして…うぅ」
 「ボブ…私も、すぐに、行くわ、あなたのところへ」
 「キャサ、リン……」
 はよ死ねよ。

 ――みたいなネタしか浮かんできません。ちょっと死ぬ気がなさ過ぎて自分でもうんざりです。

 Q3・最後の晩餐は

 選べるだけでも幸せだ(と思うのですが)。「天つゆのない天丼なんて」 

 Q4・明日死ぬとしたら今日何をしますか

 セックスしてたい。それしかない。

 Q5・希望の葬式や遺骨の処理はありますか

 ないわけではないが、葬式というのは死者のためではなく、残った者のためにするものだと思っているので、基本的に死者の希望は通らないと思っている。要するに葬式はやってほしくないし、骨はそのへんに適当に埋めといてくれたらありがたい(アイスキャンデーの棒で墓標でも立ててくれればさらにいうことはない)が、そうはいかないだろうということ。

 Q6・生まれ変わったら何になって、どのように生きたいですか

 自分に生まれて、寸分狂わず同じ人生を送りたい。
 これは決して誇りとかポリシーといった類の、前向きな姿勢ではない。

 Q7・死について思うところを自由に語ってください

 どうして皆避けたがるのか、理解できない。誰もが死ぬことを分かりきっているのに、なんで見ないふりをするんでしょうかね? イヤ、別に見ない、触れないだけなら他人の勝手なんだが、そういう話は(おいそれと)してはいけない、という態度を取ることに何の不思議も感じないというのはナンセンスだと思います。
 これほど酒の肴にぴったりな話題もないと思うんだが。毎日呑んで、呑むたんびに死ぬ死ぬって話して、最高じゃないか(笑)

 Q8・このバトンを5人の方へ……

 って、そんな馬鹿げた項目があるはずないだろうが。誰が作ったと思ってる。
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2006年02月21日

神経伝達物質とシナプスの百年愛(言葉の力・本編)

 ピカソの絵は分からないと一般によく言われますが、絵画は数学の問題ではない(ダビンチコード? は?)ので、価値という語句を補って解釈するべきでしょう。私の友人に絵の上手い奴がいるんですが、絵は分からんというから、自分絵上手いやん、って言ったら、ピカソの話を始めました。そいつはピカソのエビの絵を(テレビで)見たんだそうですが、友人いわく「辛うじてエビと分かる程度」で「子供が描いた絵みたい」と言ってました。私は「ピカソがエビの絵を描いた」と、間抜けた返事をしました。
 この続きも書きたい(書くべき)ことはたくさんあるんですが、それはまた次の機会に譲って。

 一方、ヴィトゲンシュタインという哲学家が著書にしめした「語りえないものについては沈黙しなければならない」という有名な言葉があります。これもやはり、一般人(というかわたくし)にとっては(いたずらに)もてはやされるという点について確かに分からないこともありますが、ピカソの絵よりはよほど、その価値と中身について、平衡感覚が保たれている気がする。つまり、わかったような気になれる。それが言葉の力なんだと思います。

 人は皆自分の世界を持っていて、他人とは互いに相容れない、遠い異国の空か、あるいは異星人です。ホテルは宇宙船です(違います)。恋愛にしがみつく価値観も土台は哲学的であるとさえ思います(でなきゃわざわざ取り組んだりはしない)。そうして隔絶された世界を繋ぐ、あるいは共有する手段として、言葉が(その能動性に鑑みて)最も可能性があるのではないかと。

 力というのは、脅威でもあります。私は他人より若干舌が回るそうですが、そのために見落としているものは少なくないと思っています。他人と共有できる要素が多い反面、個々のインスピレーションを汲み取る神経が麻痺してるだろうと。

 ピカソの作品はむろん技術探求もあったことは明らかですが、それが(究極の)目的ではなかったこともまた明らかです。ピカソの絵から汲み取ったインスピレーションがあれば、それは言葉では表せないだろうし、言葉で表した瞬間に言葉で表せる以上のものでなくなってしまう。そうやって他人と共有された世界は自分が得たインスピレーションの残骸すらなく、私はそれは寂しいことだと思います。(そんなわけで、3ヶ月に一回程度、ハリウッドのCG動画を120分前後見るたびに「感動する」ような、あるいは良い大人がいつまでもネズミやアヒルの着ぐるみにはしゃいでるような感覚にはきわめて懐疑的に接することになる(どだい輸入モノじゃないか)のですが)

 ええと、それで何だったっけか……映像についてはまたちゃんと(たくさん)観てから書きたいと思います。
 すでにお別れしたようです。

 おまけ(使えなかったピカソネタ)
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2006年02月14日

踊らされているのは―― 〜信じるということは(3)〜

 同じ年の友人が言った「この年にもなれば、合コンはもはや義務だ」というセリフは、惜しくも「名言!」からは漏れましたが、いい加減このトシにもなってチョコレートがどうのこうのもありません。くれる人には森永ダースのビターか明治ブラックチョコレート(要するにメーカーもんのスーパーで100円を切るぐらい安物のビターチョコレートが良い。お返しに気を遣わなくて良いから)を所望してますが、今年は女の子と会う予定がないのでもらえません。話すことも無いので世論調査にケチをつけたいと思います。

 このテの話を書くときは、読者の方は読まなくても先が見えてるのではなかろうか? といつも思ってしまいます。私の話は一部の面白い小説や漫画と違って、話の先が分かっててなお読む気にさせる類のものではないので、先が見えてしまうことはわりと致命的なことだと思っているのですが。

 少し前、選挙がありました(このブログでも2,3記事を書いた)が、終わったあと、「自民党が勝ちすぎたと思うか」との質問に、「そう思う」と答えた人が80%いたという世論調査が報道されてました。バカバカしいことこの上ない。
 私が何を根拠にそう記憶しているのかは定かでありませんが、前回の選挙で自民党は80%の支持を得て選挙に勝ったと記憶しています。(事実はさておき)仮に得票率が80%だとして(サバ読みすぎというわけでもないだろうし)話を進めると、自民党に票を入れた人の割合と同じ割合の人が「勝ちすぎた」と思っていることになる。分かり易くするために論を飛躍させると、自民党に票を入れた人の相当数が「入れなきゃ良かった」と思ってるということになります。

 そんなバカな話はない。もちろん実際に自民党に票を入れて、結果が出たのち「こんなに勝つなら入れなきゃ良かった」なんて思ってる本物のバカも、自分は投票にすら行かないで結果だけ知ってぬけぬけとぬかしとる本物のバカ以上のバカも、いることはいるでしょうが、それは世論調査とは無関係です。私がバカバカしいというのは、メディアが、自分が言いたいことを独善にしないために、80%のカラクリを作り上げてるということです。

 まず第一に、というかこれがほとんどなんですが、あの結果(議席数とか数字は忘れましたが)を見せられて「勝ちすぎか」と問われれば、大抵の人は「それはそうだ」と答えるに決まっている。その結果を初めから知ったうえで、しゃあしゃあと質問している。その結果を記事に載せて、ほら見ろみんなそう思ってるんだっていうことを読者に読ませて、再びその意識を植え付けるわけだが、今度のは「勝ち過ぎか?」「それはそうだ」と(いう単純な感想とは)違って、自分たちの都合の良いように意識を改竄させている。早い話が思想統制です。

 話はそれますが、前から申し上げているように、私は右翼です。首相の靖国参拝大賛成です。しかし自民党に票を入れたことはない。私のような思想をもつ人間が主流であることは危険だと考えるからです。民主主義は現段階で理想的な国家形態とされていますが、それは国民各人の不断の努力が不可欠の前提です。よく「自分の好きな人に投票すれば良い」といいますが、厳密にはそれは間違いだと思います。自分が(感情的に)譲れない思考と、理性的に思考(志向)する国家形態が同じだなんてことは、まあ少数ではないでしょうか。たとえば、毎日休みの世の中を作ると言って、政策や公約を掲げた候補者が現れても、勝てないでしょう。ところがその理性と感情の垣根をとっぱらって分からなくしてしまうものがある。それは宗教です。かくして宗教団体の一部である政党が固定票を得て与党に居座る。タブロイド紙のノリで言えば、日本は宗教国家だとなります。

 生きている限り、他からの刺激を受け、それに(程度の差はあれ)思考は影響を受ける。損保21のCMを見たら「見っなおそーう見なおそう♪」とハモりたくなるわけです。あれ、21だったか24だったか。LG21だったか18だったかがお送りしました。

 この先のループだかスパイラルだかに付き合う
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2006年01月21日

万華鏡(あることないこと)にこだわる理由

 最近、「本当にあった話」とか、「実話をもとにした」とかいう接頭辞が流行しているようです。流行は流行なんで何とも思わないですが、気になるのが複数の創作家たちから「実話には敵わない」「感動する」等のコメントがちらほらと聞かれることです。

 別に作者がどう思おうと物語が面白ければ問題ない、私はもともとそういう立場を採ることは去年の大晦日にも述べました。しかし、あまりに容易に認めすぎることは、スプリンターがスクーターに感心することのナンセンスに近いものを感じます。

 (自分が創った物語が)実在した話に敵うか否か(といった客観的な事実)や、またそのコメントが控えめながらも前向きであるとか(いう主観的な事情)どうとか、そんなことはあんまり興味がないです。そういった流行があって、(自分がその流行を興したとか、あるいはそれを貪欲に利用するとかいう気概でなく)簡単に流行に口を開けて感心していること自体が問題だと。

 私もノンフィクションはどちらかといえば好きです。ただし、本当にあった事実であるという点が(定義ではあれ)それほどの武器であるとは思いません。
 何が言いたいかというと、本当にあったから、それで、あなたに何の関係があるのかという。たとえば10年間一途に思い続けた恋人が難病で死んだという「切ない恋物語」があって、それが実際にあったから感動するとか、作り事だからそれほどでもないとか、そういう問題なのか、ということです。そうじゃないだろう。
 それに「実話をもとにした」ということは、実話をもとにしたフィクションということです(皇帝ペンギンが人間の言葉を話すわけがない)。それと、作者の頭の中で描かれたフィクションとどれほどの差異があるのか。私に言わせれば他人を感動させるイマジネーションを持つ作者の頭の中の方が賞賛に値すると思いますけれどもね。

 創作物に触れる者の姿勢として、誰かがそう言ったらその通りのことを考えてるとか、表現した通りのことが事実であるとか、あまりにも発想が貧困で思考が短絡的に過ぎます。フィクションの中に描かれるノンフィクションが生の事実を超えるというその気概なくして、どうやって創作ができるのか。その意味において「実話には敵わない」なんて公にコメントして憚らない創作家の神経が理解できないですね。そんなだから「他人の作り話なんかにいちいち相手してられない」なんて言われるんだ、……と思っているのかどうなのか、っていう(言い逃れだという批判は甘んじて受けますが、そういうスタイルでやってるから仕方ない)。

 一方でファンタジーが流行して久しいですが、これはこれでまた私は斜に構えています。全くの浮いた虚構を共通の認識で甘やかしあって、剣と魔法でらったった、ってね。もちろん、作者の溢れかえるイマジネーションを表現しきるためには設定から全て自分で作らないと表現しきれないんだ、というような傑作もあるので、全てを拒絶するわけではありませんが。

 30前のヨレたギター弾きが「僕ももうすぐ30歳」などと延々繰り返すだけの音楽騒音をバックに、スカートがめくれてるだけの漫画にビニールをかぶせるだけの仕事を毎日延々くり返していると、いい加減で愚痴の一つもこぼしたくなります。

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2006年01月20日

頭のカタい人の説く「思考の柔軟性」

 Q:18歳のお兄ちゃんと、15歳の弟がケンカしました。弟が勝ちました。それはなぜでしょう?

 A:18歳→高三→降参

 このテの問題をスイスイ解く人が「頭が柔らかい」などと言われることがありますが、私は全くそうは思いません。解答に何の根拠もないという点はお愛想としても、既成概念にガチガチに囚われている(=年齢から学年を断定する点。そもそも義務教育でもないのに)ことのどこが柔軟な思考なのか理解できませんし、どだい論理性のかけらもない思考は非生産的だと思います。鬼の首を取ったように「頭カタいなあ」って言う、その頭(=価値観)のカタさがまた何とも哀れに思われてしまいます。

 Q:ある切符売り場では、2000円で指定席をとれる切符と、1500円で自由席をとれる切符が販売されています。A君は2000円を差し出したところ、係りの人に指定席をとるのか自由席をとるのか尋ねられましたが、B君が2000円を差し出したところ、係りの人は何も尋ねずに指定席の切符を売りました。それはなぜでしょう?

 A:(A君は1000円札2枚で支払ったが)B君の支払った2千円には小銭が含まれていたから。

 やっぱりこの程度の論理性は保ってもらわないと、いい大人がクイズに取り組もうとは考えないですよ。本問の場合は論理性というより実践ですけども。

***

 私の考える思考の柔軟性とは、価値観が相対的であるということをどのくらい理解しているかが判断基準です。今日の記事は「頭のカタい」記事ですね。一つの価値観を延々引き伸ばしてるだけのもので、展開もありません。
 言うまでもなく、これらは私の仮定する頭のカタい人間の一類型であって、「私」個人の価値観とは違いますので、そこは柔軟な思考でご理解頂きますよう。

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2006年01月19日

「あんな奴、死んで当然だ」って、言うじゃない?

 少しご無沙汰でした。雨の中を傘もささずに走って軽く風邪をひいてますLG18ですこんばんわ。いい加減半角か全角か統一しろって話ですが。

 随分長い間記事を書いていないように感じて、半ば発作的に書き始めています。風邪をおして無理に書く理由もないのですが、それまでサボっていたことで何かに追われているようです。これも貴重な体験です。
 ネタは溜まっていく一方で捌ききれないフラストレーションもあるにはありますが、こんな日に使ってもモノにはならないので、一番用意できてない題材を使います。

 最高裁、宮崎勤に死刑判決。

 ヒューザーの社長の国会での証人喚問や神戸の震災を抑えてのトップニュースってやつですね。
 判決自体に異論はありませんが、あまりに偏った見解がこれほどまでに通用しすぎると、危惧を感じざるを得ないです。

 「あんな奴、死んで当然だ」「今までのうのうと生きてるなんて」って言う人(特に50代以上の人に多いと思うんですが)のほとんどは事件および捜査や公判とは無関係で、被告人と面識すらないわけですが、その事実に相応するポリシーやプライドを持って「死んで当然だ」と言ってるんでしょうかねえ。それがまた「ゲームで簡単に人を殺すから人の命の重さが分からないんだ」とか言う人の口から出て来たりするものだから、私にとってはさっぱり意味がわからんのですが。
 伝わらない人に痛い喉をからしてまで言うつもりもありませんが、私とて面識すらない宮崎某の肩を持つつもりも義理もありません。ただ、罪は裁かれるべきであるという主張と、某が殺されるべきであるという主張は別問題です。

 裁判官が言い渡す「被告人を死刑に処する」と、被害者の関係者の言う「死刑は当然だ」と、それらの報道と、あなたの言う「死んで当然」は、その全て、持つ意味が違います。当たり前のことです。
 でもその当たり前のことすら、どうも分かっていないらしいのが首相をやってる国のことなので、どうにも不安です。

 はっきりいって、見も知らぬ他人が死刑になろうと知ったこっちゃない。
 ただ私が恐れるのは、言われなき罪で自分が殺されるのみ。

 「いつか自分が加害者になった時のために、今から加害者の立場を有利にしておこう」今回私の意図が汲めない、受け入れられない、という方は、そのように理解して頂いて構いません。人道主義者の人権擁護主義者のと、漢字のかたまりで括られるよりはそっちの方が余程近いです。
 マラソンを0秒で走ることは不可能だけど、蚊を殺したら死刑っていう世の中は、不可能ではない。

 今日の一句
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2005年12月31日

愛するべきは作者でなく作品

 私は誰かのファンというのはないし、(極めて近しい人間が売れる、というような特殊なケースでない限り)おそらくこれから先も誰かのファンになるということはないと思います。ここにいうファンとは、その人の創る作品に対する賞賛や賛同を超えて、その創り手個人の生き方やものの見方、考え方などを賞賛・賛同し、もしくはそれらと作品とを結びつけてああだこうだという人のことを指します。定義の正誤はどうでも良いので、とりあえず今回はそのつもりで読んでください。

 かつては私もそうでした。よくあるのが昔の文学者と呼ばれる人たちについてですね。いわく「羅生門」を書いた頃の芥川はうんぬんかんぬん。「人間失格」が太宰自身とかぶってるだのかぶってないだのと言った類のものです。今ではそういったものは愚の骨頂だと考えています。まあそれ(だけ)でメシ食ってる人も少なくないんであんまり触れないでおきますけども、一応自分自身の経験と、本人達がそう言っている(私の知っている範囲内で、私小説とは内なる私を表現することをいうとかいうことを芥川が、小説は思想書とは違う、みたいなことを三島がどこかで書いていた)ということ、という実地的なものを理由として挙げておきます。妥協の線として、「何某論」というのをLG18氏が書いたとして、それはLG18の作品であって、そこにテーマとして書かれている何某氏の作品ではない、というところでしょうか。

 だから私はYOSHI LOVINSONが吉井和哉になったからといって、別段何ということはない。ただこのブログの「好きな邦楽」欄が無駄に膨らむことへの危惧を除いては。ましてや世界一「天才」であふれてる音楽雑誌に書いてあることなんて、はじめから話半分にしか聞いていない。陳腐な解散劇をさらしたり名前をころころ変えたり、一連の表だった動きに不器用な生き方をみることはできるけど、それが作品にどう影響してるとかいうことには興味(を向ける価値)がない。ただ私にとって良い歌を出しつづけてくれればそれで良い。

 というわけで、来年もよろしく。
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2005年11月26日

あったのか、なかったのか。

 「毎日続けていることは、死ぬまでできる」という物言いがあります。しかしその命題は偽だと思います。毎日階段を昇りつづけていても足が上がらなくなる日はくるだろうし、毎日食べつづけていても、起きつづけていても、息をしつづけていても、いつかできなくなる日は来るだろう。端的に、毎日生き続けていてもいつか必ず死ぬ点について、「死ぬまで生きてられる」という物言いは、何の意味もありません。

 私の祖母の友人に、そろばんと算数と数学の先生がいました。といっても教員免許を持ってるわけではなくて、近所の子供を自宅に集めて教える、今でいう塾の先生みたいなことをしていて、私の母も兄もその先生にしごかれたそうです(私の時は体力的な問題から辞めていた)。「分からない個所があったらものさしで叩かれた、怖い先生だった」という母の話と、「お前の兄ちゃんはなんぼ言うても教えたっても『3分の1』が分からんくてな、そない言うたったらええわ」と笑う老婆と、「そのことは死ぬまで言われるやろうな」という呆れ顔の兄から想像するだけなのですが。
 この老婆は晩年痴呆で、数字だけが全く駄目になったのだそうです。足し算はおろか1から10も数えられないようなレベルだったという話です。その他は意識も明瞭で、生活にも何ら支障はないということでしたけれども。

 身内も含めて、当然ながら皆がその老婆の知己であり、また(私は年とってからしか知らないけれども)非常に穏やかな人だったので、老婆のことを悪く言う人はいませんが、因果な話だと思いますね。その老婆はもう何年も前に亡くなっていて、祖母はさらに前に亡くなってますけども(法事がないから何年か分からない)。
 今でも母は素早く珠を弾き家計簿をつけています。老眼をかけながらですけども。

 昨日できたことが、今日できなくなる。人生において昨日できなかったことが今日できるようになる期間よりも前者の方が一般的に言って長いと思います。そして私は最近それについてさほどの悲観を感じません。昇って、降りる、ただそれだけのことです。亡くなった方を悪く言うつもりはありませんが、3分の1を分かろうと分かろうまいと、(多少生活に不便だろうけど)大した差ではない。それもいずれわからなくなるのなら、馬鹿にする価値はさらにないと思います。あんまり若くで年くった物言いは良くないと思うのですが。
posted by LG18 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月20日

他人の言うことはもっともらしく聞こえるのはなぜだろう?

 タイトルの問いに対して確たる答えを持っているわけではないです。というより今書きながら考えるところです。昨日今日抱えた問いではありませんが、こうでもしないと埒があかない。いわゆるタイム・リミット(*注)です。
 私は本屋でバイトしていますが、実に驚くべき種類の雑誌があります。しかし、それらから「悩み」や「相談」、「アドバイス」といった語を削ると、もともと無い中身はさらに薄くなって、いよいよ宣伝だけの紙の束と化すでしょう。つまりそれほどまでに重宝されているということです。見も知らない他人の言ですらその有様だから、友人知人になればいよいよ相談を求められる。「あなた年いくつ?」から始まる年齢不詳のおっさんが今年の紅白の司会をやるんだそうです。

 じゃあ、他人の言なら何でも盲目的に従うのかといえば、(見方次第であり、そうであると言っても誤りとは言えないが)従う言をしたたかに選んでいる気配が感じられます。要するに自分に受け入れられない主張は排除するということです。場合によっては「そんなのが聞きたいんじゃない」とまで言う場合もあります。身勝手極まりない。

 単純に他人の言に従うつもりで相談を求める場合も含めて、大まかに言って他人との一致を求めている。それには他人を自分に合わせる(巻きこみ型)と、自分を他人に合わせる(乗りこみ型)があると、ここまでは整理がつくのですが。
 他人の言動を意識するというのはすなわち自信がないからだといえそうですが、自信とは他人の評価によってもたらされるものであって、結局論理は堂々巡りになってしまう。

 ちがう、自信が無いからそれを得たくて他人にすり寄っていくんだ。しかし本当にそうだろうか? 自信が必要な理由はなおも見えてこないし、第一、他人にすり寄って自信を得たとして、その他人もまた他人なくしては自信を持てない輩なんだから、いずれドミノ倒しのようになってしまうことを考えないのか?
 自分の眼前に不安とか動揺とか曖昧とかが無ければそれで良いのさ、他人に言い当てられるような運命なんじゃない、他人に言い当てて欲しくてさらけ出してる運命なんだ。

 仮にそうだとしても、なぜそうしなければならないのかが分からない。そうするように執拗に教育されてきたから? やはり今日も確たる主張に実らぬままつぶやきに終わってしまいそうです。

 名言は こちら
 (*注)リミットについては こちら
 
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2005年10月27日

幸せになりたいかー!! おー!! みたいな。

 最近はそっち系の記事ばかりのように思われるかもしれませんが、これはこれで山を登るための道具であり、手段であり、無駄口である、などと言い訳をしておきます。前にも書きましたが、この程度の偏りは雑誌の特集みたいなもので、別に私がそのことばかりを考えてるとかいうわけではないです。

 さて、巷で良く言われますこの言葉、「幸せになりたい」。幸せになるためにはまず幸せがどのような状態を指すのかを定義づけてからアプローチする、というのが一般的に定石ですが、今回はあえてその作業をせずに考えてみたいと思います。

 「言いたいけど言えない」ということがあります。日常にごくありふれたこのシーンは、何らかの明確な事情があって言えない(ことを本人がわかっている)というケースが一般的です。上司の悪態をつくとか、学校の先生の本日のハゲ具合とか、阪神ファンに日本シリーズの話とか、まあそういうことです。
 ところが、なかには明確な理由が本人に見出せないまま、「言いたいことが言えない」ということがあります。私から言わせれば好きな相手に告白できない(相手が親友の恋人である等の特殊な事情もなしに)というのもこちらに入るので、想定しているよりもかなりたくさんあるでしょう。
 告白なんかを例にとった方が分かりやすいかもしれませんが、「言いたいけど言えない」って言いますね。今私もそう書きました。けど、結局は言わないということを前提にして考えた場合、その人は本当に「言いたい」んでしょうかね? 
 そんな前提は無茶だと思われるかもしれませんが、女の子のなかには最初から言うなんてことは選択肢になくて、ただ想う相手を遠くから見てるだけで満足、というのがあるみたいですし、まあそれはそれで恋と呼べるだろうと思います。
 それで、それが一番極端なケースで、(言いたいけど)言えないと強く思った場合、結果的に告白しなかった場合と、程度に差はあるでしょうが、やはり言いたかったのかというのはあやしくなってきます。そして、対極に位置する極論として「言いたかったら言ってるはずだ」という理屈があるわけですね。

 私が試験についての悩みを友人に相談していたら、「勉強するとかしないとかの問題じゃなくて、受かるか受からないかの問題だろう」と、心無い言葉を浴びせられました。言葉通り心はありませんが、自分は本当に受かりたくて勉強しているのかということを改めて考えさせられました。
 まさか、受かりたいなら受かってるはずだとまでは(その友人も)言いはしないでしょうけども。

 幸せになりたい、幸せになりたい。・・・そのためには、まずは幸せの何たるかを考えて――といくのも大事でしょう。けれども、幸せになりたいというフレーズは、幸せになりたい(になりたいんだろうとまでは言わないにせよ)ために呟く呪文であって、幸せになりたいと思、っ、て……るわけでは……ところてんのように思考がつるりとぬけてしまいました。
 意味わかりませんね。

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posted by LG18 at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 思うこと・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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