2005年10月16日

健康の狂気 〜精神疾患についての一考察・後編〜

 1.少し前に、ある健康雑誌に「青いご飯ダイエット」という見出しとともに、表紙の端に群青色のご飯が茶碗に盛られている写真が掲載されてまして、その異様さのあまり付録を組むふりをしながら当該記事を読みました。
 色を付けるということが分かった以上、その色にする方法(材料)には興味がなかった(どうせ「身体に害の無い」もので色をつけるのだろう)ので覚えていませんが、何の為にそんなエグい色に染めるのか。何がダイエットと繋がるのかと思って(その目的を)読みすすめました。
 すると、青いご飯を見ると食べ物でないように思われる→食欲が減退する→(おかずも含めて)食事量が減る→ダイエットとなる、という実にシンプルなことが書いてありました。
 そのあまりの不健康な志向に思わず目を疑いましたがね。

 2.日本人の平均寿命が女性で87歳なのだそうです(詳細は分かりませんが)。
 狂気の沙汰を承知であえて書くならば、私は「60云歳で亡くなった」と聞けば、(感情としては)まあ十分じゃないかと思ってしまうのですが、これは平均におよそ20年満たないわけです。これは私の人生の大部分(やんね??)に匹敵する数字で、改めて自分の考えの勝手さが浮き彫りになります。
 もっとも、平均=人並みが成立しないケースは多々考えられます。他人が言っていたことなので確かではありませんが、現在の日本人1人あたりの貯蓄が(0歳児から含めて)平均で1500万円なんだそうです。4人家族なら6000万の貯蓄があって平均ということになりますが、これは明らかに金持ちの数字です。
 しかし、99人が30歳で死んで、1人だけが5030年生きている(場合、その100人の平均寿命は80歳)なんてことは国勢調査の紙も想定外なわけで、ようするに女性であれば87年生きて人並みということになります。

 こうやってつきつけられると、中学の頃から定期的に遺書を更新していた自分がほほえましくも思われてしまいますが、油断してはいけません。
 自分が平均に達する保証はどこにもないのですから。

 ようするに


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2005年10月13日

disease or idleness 〜精神疾患についての一考察・前編〜

 先日バイト先に大声で「怖い怖い、人は怖い」と騒ぎ立てるおばちゃんが来ました。その人は連勤術師の名をせわしなく連呼して、(その人による)接客を要求していたようでした。

 術師「あの人はパニック症候群か(何か)でな、ケンジョウシャが怖いらしいねん。でもよくウチに来てくれるから(ちゃんと応対せんといかん)」
 LG「(ケンジョウ…)ああ、健常者が」
 術師「俺のことは怖くないらしいねんけど。俺健常者なんやけどなあ?」

 去り際の背中に「(パニック)症候群じゃなくて、障害です」と言いかけてやめました。指摘することに価値がないと思ったので。そのお客さんはレジでも執拗に早くしろだのあんたは恐ろしいだの術師に代われだのということをヒステリックにがなりたてていました。

 同じ病名を持つ友人がいますが、調子が悪いときは会ってくれないので私は症状を知りません。術師の言葉の誤りから考えてもその人が本当にパニック障害なのかは甚だ怪しいものです。ただ、精神に何らかの疾患を来していることは纏う空気で分かりました。

 ***

 他にも綜合失調症(かつて分裂病と呼ばれていたもの)、うつ病、人格障害、対人恐怖症他、病名は非常に多岐にわたりますが、私はこれらはイソギンチャクの触手の一本一本に名前をつけている作業のように思われます。触手の先に行けば行くほど症状が重いというイメージです。そして(何本あるのか知れない)まだその全てに名前がつけ終わっていないためか、はたまた触手が複雑に絡み合っているためか、病名がはっきりしないケースも珍しくありません(とりあえず鬱症状が出てますね、みたいな)。でもそれは私からすればごく自然なことのように思われるのです。
 心の疾患というのは、身体の疾患と違って、病名を特定すること自体には価値がないと思うし、また不可能なことのように思われます。結局その人に合う薬を探し当てる作業を合理化するというマニュアル的な要素であろうと。
 先ほど私はイソギンチャクの触手の先へ行くほど症状は重いと例えましたが、人間であれば誰もが少なくともイソギンチャクのどこかにいると思うんですね(人間が集まってイソギンチャクを形成しているというイメージでも構いません)。その例えでいえば。そこから遺伝か素質か環境か、何かのきっかけで触手の方へ進んだ人は細い分風当たりが強くなって少しの波にも大きく動揺する状態におかれている、と。
 哲学かぶれには一様に評判の悪い「ソフィーの世界」という本に、毛の先の方へ進むのが哲学者だというような例えがあったようなおぼろげな記憶がありますが、イメージとしてはあれに近いですね。

 自分の経験を踏まえて言うんですが、触手に位置する人って傍から見てるとすごく自分勝手に映るんですよね。理不尽なくらいに。全く縁の無い人も、立ち寄る本屋ですらそんな調子だとすれば、近くにいたらどんなことになるかはおおよそ推測はつくと思います。でもそれより一番大変なのは本人だと私は思いますけども。
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2005年08月27日

笑い話から笑えない話へ

 小さい頃に読んだ「わらいばなし」という本に、こんな話がありました。

 「金を拾うことはうれしいことだぞ」と教えられた男が、自分の金をそのへんに落として拾ってみるけどもうれしくもなんともない。何度繰りかえしても、やはり全然面白くない。繰り返しているうちに、自分の投げた金が転がって沼に落ちた。男は落ちたあたりを懸命に探すが、金はみつからない。その後も必死になって探しつづけて、ついに金を見つけた。そこで男が一言。
 「なるほど、金を拾うことはうれしいことだ」

 この話は当時小学一年くらいだった自分にかなりのインパクトを与えたのを覚えています。大笑いするわけではないし言葉で説明することもできないけど、おもしろかった。自分で転がさなくても貴重品を落としつづけ、かつ見つけられない笑い者LG18ですこんばんわ。

 今思い返してみると、この話は笑い話であり、かつ寓話でもあります。この男がバカだと思った方は……

 何の気なしに調べてみたら、なんと今でも売っているようです。こちら
 驚いたことに表紙が全く変わっていません。売れているのかいないのか。

 話は変わりますが
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2005年07月30日

与えるのが愛情なら、受け取るのも愛情。

 むかーしむかし、それはそれはうつくしいアイドル歌手がおったそうじゃ。

 …というくらい昔のことのように思えるのですが、愛されるより愛したいと歌っていたアイドルがいました。その頃私は(今もですが)女の子にモテず、ろくに話も交わせないような学生でしたが、その感覚は共感できるものがありました。

 たとえば、自分が好きだと感じた他人に対して、その想いを伝えることは実に容易いことです。ただ自分の思うとおりのことを言えばいいだけです。
 告白だけではありません。たとえば付き合ってのち、好きな相手の好むものを聞き出して、誕生日にプレゼントをする。好きな相手の行きたいところへデートに行く。煙たがられたら会うのを控える。浮気が発覚した相手を許す。全て自分から発している感情で、他の人はともかく私にとっては全て容易いことです。(許すことも)愛していれば簡単なはずです。

 問題は、だからといって受け取る側が愛情として受け取れる(=幸せ)かということです。

 与える方(仕掛ける方)は自分から矢印が出ているから、想い(矢印)そのものに違和感というのか、食い違いはないはずです(図1)。けれど、受け取る方(仕掛けられた方)は、相手から矢印が出ている(図2)から、自分の基準で受けとって良いのか分からない。あるいは自分の基準で受け取ると食い違いが生じるとでも言うんでしょうか、そういうことが生じるはずです。これはやりづらいように思われます。

 (図1:自分→相手  図2:相手→自分)

 とすれば、自分の好きな相手の、その(本来)受け取り難い愛情(=矢印)を受容しようとすることもまた、愛情なのではないでしょうか。
 私も書く側の人間ですが、ブログにしても小説にしても、書きたがる人はたくさんいるけれども読みたがる人はなかなかいないとよく言われます。何をそんなに他人にひけらかしたいのかという切り口はひとまず置いておいて、発信することの方が(本来は)容易いんですよね。いや、言いたいことが言えるなら何の苦労もないさと声を震わせながら絞り出す人もいることは知っているつもりでいますが、それはまた別の問題であって、私の言っていることと矛盾することにはならないと考えています。

 そこで私は(与える側が過剰になりがちな傾向に鑑みて)、与える側にも受ける側への「配慮」(それは徒労に終わったり、また逆効果になることさえあるだろうけれども)が必要であろうと、そのように考えています。だからマスコミにうるさかったり、あんなことを言ったりするんですが。しかしそれらの配慮は単なる自己満足であることを忘れてはいけません。自分が相手に送りつけた「配慮」を、相手にとっても「配慮」であることを強要するくらいなら、始めから何もしない方がましです。まぁ、私の場合はそこから「私のことが好きなら浮気しないで」などという女は愚にもつかない、というところまで飛躍しますが。
 ビリなしではトップはありえないのだと言われることもありますが、受け取る側なくして与える側はありえない。恋愛にしても日常生活にしても、特に自分のような発信専門の人間にとっては、常日頃忘れてはいけないことだと思います。

 そのアイドル歌手は玉手箱を開けてしまい、あっという間にお爺さんになったとさ。

 おわり。ファンの方、怒らないで下さいね☆
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2005年07月28日

ドラゴン桜が東大を難しくする

 風呂の湯船に浸かっていると、両手を湯船の底について簡単に体を水面まで浮かべることができます。そのまま両手を放すと体が沈んでいきますが、腰が底につくまでの瞬間の感覚にはある種の快感を伴います。逆らいようの無い重力に身を委ねている。両手をついて体を持ち上げるときに勢いをつけると落ちるときに顔から足までが横一線に沈んで行くのがまた良くて、三回目尻が浮く程に勢いをつけて両手を離したところ、頭からさかさまに沈んで、自分の体が邪魔で溺れそうになりました(といっても足は水面からでているので溺れると言うのか分かりませんが)。狭い湯船に大きな体がかぶさっては逃げ場がありません。真似しようと思った人は気をつけてください。
 この年になって初めて溺れそうになってその怖さを(多少なりとも)肌で感じたLG18ですこんばんわ。

 売れてます。ドラゴン桜。F4の写真集に劣らないくらいよく聞かれます。このリンクへ飛んで思わず「うわ、キモっ」って声に出そうな位思った方はきっと私と気が合う方だと思います。(声に出した方は行き過ぎです)
 で、オビなんかにも書いてある「これで東大に受かりやすくなった」っていうのは、どうなんでしょう?

 まず私は漫画もドラマも一切見てないので内容を知りません。なので仮に「ドラゴン桜を読む=東大に受かりやすくなる」と仮定しましょう。これはオビの内容にも沿うものです。しかしこれは矛盾しています。
 要するに、東大の定員は動かないわけです。とすれば、たとえば受験者全員がドラゴン桜を読んでいる場合、「受かりやすさ」は全く変わらないはずです。オビの言葉を合理的にしようと思えば、ドラゴン桜を読んだ受験生に特別に合格枠を設けるなどの措置を取らなければならないことになります。
 書いてしまえば当たり前のことですが、「これを読めば読まなかった場合に比べて)東大に受かりやすくなる」というのが正確です。「飲めば痩せる」というダイエットドリンクとは違うということです。

 オビの言いたいこと(「東大=難しい・凡人には無理」というイメージを払拭した功績は大きいという意味でしょう)が分からないわけではありません。私の言っている意味を当然含んでいることも承知しています。私の言うことは他人から見れば屁理屈ということになることも。
 でもねぇ。
 東大に受かろうかと言う人がその程度の論理力で足りるんでしょうか? それとも東大に受かるためにはこの程度の論理力で足りる位簡単だと言いたいんでしょうか?
 それに私からすれば、前者の主張もやっぱり矛盾してると思うんですよね。ドラゴン桜によって(イメージが払拭されて、かつ効果的な学習方法を確立して)東大を志向する人間が増えたとすれば、その分難しくなるんじゃないですか? 相手は東大ではなくて受験生なんですから。

 というわけで、ドラゴン桜が(内容を伴うものであるほど)東大を受かりにくくする、と考えるのが論理的だと思います。東大を目指す人ならこの程度はわかりますよねえ。
posted by LG18 at 21:59| Comment(2) | TrackBack(2) | 思うこと・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月29日

ホントにわかってんの?

 こっこちゃんとしげるくんはアルバムを出したんでしょうか? 詳しいことは知らないですが、とにかく「音楽のない人生なんて」以外にもいくつも曲を歌っていることは間違いありません。で、私はこっこちゃんもしげるくんも好きな方なので特に問題はないんですが、ただひとつ気になることは、こっこちゃんは○ステ出演を最後に走り去ったはずなのに、いつの間に戻ってきたの? という疑問が今ひとつきっちりとけないことです。いやまあ別に構わないんですけどね。単に私が知らないだけかもしれないし。
 「No TEN-TUYU, No TEN-DON」の管理人LG18ですこんばんわ。

 少し前の話題ですが、小学生に「人が死んだらどうなるか?」と問うたところ、「生きかえる」等の回答が看過できない割合だった、ということがありました。ほかにも「天動説支持」など、何かアンケートと取る度に問題として取り上げられているような印象を受けます(問題ない回答だったら報道されないだけだろうという考え方もできるけども、そうかどうかは別として)。

 それらは問題には違いないんですが、どうも騒いでる人達は何かを勘違いしている気がしてなりません。大人達の責任ですから。騒いでるメディアの皆様、あなた達のせいであり、それを見て騒いでる私達のせいであるわけです。そして子供達は社会環境を映す鏡であって、被害者です。「それはどうかと思う」という感想を漏らしたとすれば、それは自分たちが築いた社会環境に対するものであることについてもっと自覚すべきです。

 もう一つ、天動説支持に関して、別の切り口から喋らせてもらいます。
 地動説、つまり地球が公転していることは、科学的根拠を伴った真理であり、いわば事実です。
 しかし、一般の人が地球の公転について「きっちりと」根拠を示すことができるか、要するに地球の公転を証明できるかと言われればこれは甚だ疑問です。少なくとも私にはできません(し、証明できない人の割合が「生きかえる」とこたえた子供と同程度かそれ以上になると,私は思います)。
 ということは、結局のところ誰か偉い人(他人)がそう言ってるからそうなんだ、くらいでしかないということです。人工衛星だって、私が飛ばしたわけではない。それは、かつて天動説が支持されていた時代に疑いも無く天動説を信じていた事実とどれほどの差があるんでしょうか。(客観的)事実として地球が公転していることと、私が(根拠も示せないまま)地球が公転していると信じていることには、極論すれば何の関係もないということにはならないですか?

 天動説だなんて馬鹿げてる、だなんて、「知りもしないで」言うもんじゃない。自力で証明できない人がそう言ったとしたら、それはかつてコペルニクスを火あぶりにした人達と変わりはない(違うことは科学的真理と自分の見解が一致しているという一点だが、先に詳しく書いた通り、立証を伴わない以上その事実には価値が見出せない。)というべきだし、自力で証明できる人であればきっとそんな風には言わないと思うんですよね。小学生にはちょっと難しいだろうなと。

 子供達は見えたものを見えたまま言ってるだけのことです。私に言わせれば自分で見解を立ててる分むしろマシじゃないかと思うほどです。(自分なりに考えた)天動説を支持して、先生(他人)から地動説を吹き込まれたときに「どうしてそう言えるのか」という疑問を抱くことの方が、地動説の権威に屈して鵜呑みにするよりどれほど真理に近づくことができるかと考えれば、この点に関しては理解していただけるはずです。
 そして、教育が至らないという問題点に関しては、前述の通り、大人の問題であって、子供の責任ではない。

 異常なのは、子供達「の方」ではない。
 異論・反論、お待ちしてます。

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2005年06月17日

友人は少なくて良い

 以前は全くなかった迷惑メールが時おり届くようになって、どこからアドレスを拾うのだろうかと不思議に思っていたのですが、どうもここしか心当たりがない。はて、ここはそれほどメジャーなのか? と、嬉しさ半分迷惑半分でメールを削除してますLG18ですこんばんわ。「それは迷惑メールじゃないよ!」という「色欲に溺れた人妻」様、メッセージお待ちしてます。

 最近ぐだぐだの記事が多くて、自分でも不本意です。カテゴリに「ぐだぐだ」を作って分けようかとも考えたのですが、言い訳がましいし、その記事を読んで素直に楽しんでもらえた人がいたとしたら悪いなと思い、止めました。自分がどう思ったかなんてのは読んでる人にとってはどうでもいいことです。

 ぐだぐだだなぁとぱらぱら見返しながら、友人の出てくる割合が他のブログに比べて多い気がしました。それと、何かをしたことより、価値観やものの考え方を話してる記事が多い。それだけ他人と深く影響を及ぼしあっているのだなということを再確認しました。
 私は友人が少ないです。現在繋がりがある(ここに書かれている)友人は、5人程度です。携帯電話に登録されてるのもたぶん30件程度でしょう。以前はそれに劣等感を抱いたり、寂しく感じたり、自分の人間性に問題があると考えたこともありました。しかし、最後の一つはともかくとして、時がたつにつれてそれは勘違いであることに気付きました。

 携帯電話に100件を越す名前が登録されている友人は(複数いましたが)、名前を見ても顔も思い出せない、あるいはそもそも名前すら心当たりがないものがあると言います。それをカウントすることはもとより、そういう関係にしかならなかった、そもそも関係と呼べる関係すら築けなかった人間と、(携帯電話の番号を交換する)一時でも繋がりを持っていたことに、どれほどの意味があるでしょうか。
 いずれ「名言!」にもとりあげるかもしれませんが、内田百間(正しくは、門がまえの中は月)は「友人は8人が限界だ」という内容のことをエッセイか何かで書いていて、自分はかなり共感を覚えました。ためしに友人達にもその言葉を紹介したあと、「『友達』何人いる?」と尋ねたところ、1、2、3・・・と指折りながら数えていって、5人目6人目くらいから徐々に指がゼンマイ切れかけの人形みたいな動きになって、「うーん。それは言えてるな」と言ってました。携帯に登録してる人数が多い友人ほど歯切れが悪くなるのが早い傾向があったのは興味深かったです。
 まぁ、聞いたといってもたかだか5・6人なんで、真実だなんて言う気はさらさらありませんが。
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2005年06月05日

使いにくい機械は要らない

 今日は少し携帯屋へ立ち寄ったんですが、スライド式や折りたたみも大層凝ったデザインで、まぁその良し悪しはともかく。

 どれもこれもひどく使いにくい。
 なかには親指の第一関節から先だけで1から9までのボタンが大方うまってしまうものもありました。
 メールが打てない。

 ななめドラム(洗濯機)なんかもそうですが、少しはデカい人間のことも考えてくれないですかね。とはいっても私が格別デカいわけではありません(から、なおさら考えるべきだと思う)。みんな使いやすいなんてウソです。
 ああ、ちょっとすっきりした。

 最近コメントをよく頂いてるので良い気になって書きますが。
 着せ替えケータイやら、きらきらしたシールやら、着うたやら、あるいはそれらを組み合わせて、他人と違うものにすれば個性的だと考えるのは間違いです。
 これは推測ですが、そういうことに「個性的」であろうとする人が求めているのは恐らくアイデンティティだと思われます。しかし、そんなことでアイデンティティは得られないという意味です。

 今や空前の恋愛ブーム(もはやブームでは済まない)で、二十歳過ぎて今まで一度も彼氏(彼女)いないと言うと、人より下に見られるということがほぼ通用してしまっています。(それはマスコミの思想統制ですが今それは問題にしない)
 これを理屈で説明するとすれば、アイデンティティが確立されていないと見られるから、くらいしか思い浮かばない。(もちろんそれも言うまでもなく偏見ですが)
 たしかに恋愛は一番手っ取り早くアイデンティティをこしらえることができます。「世界であなたしかいない」と囁いてくれる(かどうかは知りませんが)相手がいるわけですから。それに何かしら甘い経験も伴うわけですから、マスコミ云々以前に若者にとって魅力的であることは間違いない。
 社会学者みたいな物言いをすれば、現代の若者は恋愛でしかアイデンティティを確立することができない。だから恋愛未経験の人間をアイデンティティを確立していないものとして蔑む、ということでしょうか。この前提として、アイデンティティは(人生の早い段階において)ある程度確立されなければならないという価値観が不可欠なのですが、それがなぜなのかは、私にはわかりません。(考えてみたい方はこちらを参照)どちらにしても、そもそも恋愛未経験者がなぜ「モテない」などと称されて蔑まれるのかが私には理解できないですしね。

 個性とアイデンティティとでは指す意味に違いがあるのは当然ですが、自分の代わりなどいくらでも利く現代(島田紳助が活動自粛したときに、彼のレギュラーの番組を代役が事も無げにやってるのを見たときはさすがにショックだったが)において、自分でなければならないものがないと生きていけないというのは、理屈では分からなくても感覚で分かります。そこから他人と違うものを求める発想にたどり着くというのも、これまた論理的ではありませんが経験則で分かります。その需要に応えて商品化されたものが着せ替えケータイであり、シールであり、着うたであると。それが携帯の本体にまで反映されて、あんなけったいな形のものが次々と工場のラインから作り出されてくるわけです。

 「そんなものには乗せられないぞ」という人間の方が個性的だと私は思うのですが、どうでしょうか。
 私は自分にとって使いやすいものを作ってくれればそれを買います。話がだいぶ膨らみましたが、今日言いたかったことはただそれだけです。
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2005年05月16日

信じるということは(2)

 また今度書きます、と言った話題がたまってきました。試験も終わったので腰を落ち着けて書こうかなと思います。
 変なところで義理堅いLG18です、こんばんは。

 例えば付き合ってる彼(女)がいたとして、その彼(女)が二回連続でデートの約束をすっぽかしたとします。で、三回目、「今度こそ行くから許して」と言われて行ったら、(やはりというのか、まさかというのか、そこが一つの価値観の分かれ目ですが)すっぽかされた。さすがにキレて別れを切り出したら、その彼(女)が泣きながら「待ち合わせ場所に行く途中で偶然会った友達が通り魔に刺されてたから(行けなかった)」と言ってきたとします。
 あなたはその彼(女)の言葉を信じますか?

 私は信じました。
 ただし、これは例え話なんで、相手からの「刺された」という言葉以外は実際私が経験したものとは違います。ただ、実際に経験したことを書かない理由は、ここで書くことは憚られるようなものだからです。彼氏彼女の事情がどうのこうのだなんて類のなまやさしいものではありませんでした。
 それでも私は信じました。

 「刺された」というキーワードから想像してもらうしかないのですが、友人知人からはことごとく「それはありえない」という内容の返事を頂きました。
 私は自分が信用した人間としか人間関係を築かないタイプの人間です。信用できない人間しかいない(あるいはそもそも他人など信用できない等)と自分がそう判断するのであれば、友人などは作らないでおくべきだと思ってます。ただ私は弱い人間だから、信じるに足りる他人を探しだして、その人と関係を築かないとやっていけない。これが私の思考モデルです。「LG18の作り方」みたいなものです(笑)
 それ自体よく他人から反論されるのですが、それはまた明日にでも書くとして。

 こういう人間が先の例にあたった場合、どう考えるかというと、一度自分が信じ(ると決め)た他人の言動について、いちいち疑うのはめんどくさい、となります。すなわち、誰かが刺された事実が実際にあったのかなかったのかは、私の考える対象にはならない。要するにどうでもいい。自分が信用した人間がそう言ってるのだから、それを前提に考えるしかない、と。

 友人にそう話した後、「調べる気もないのに疑ったところで意味が無い。(人間関係においては)信じるのが楽でいいよ」と続けると、「最初から誰も信じない方がもっと楽ですよ」とさらっと返された。思わず返す言葉につまりましたが。
 自分とかけ離れた考えを持つ人と話をするのは、非常に楽しいです。

 他人を信じることは美徳ではありません。先に書きましたが、ただ自分が弱いからそうせざるを得ないというだけのことです。
 信じるということは、自分のなかで完結する行為であり、かつそれ以上の意味をなしません。その事実を忘れないでいれば、失敗するということは(論理的に)ありえません。
 でも、水野晴郎じゃないけど、他人を信じるって、ホント、おもしろいもんですよ。
「だまされる方が悪い」という言葉がありますが、LG風に言いなおすとすると、「信じる方が悪い」となります。
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2005年05月14日

携帯電話の普及が現代社会に与える影響について

一 携帯電話の普及が現代社会に与える影響について、まず現代社会の構成員たる個人について考える。
 1 携帯電話は非常に便利なものとして広く受け入れられたことは、わずか数年のうちに急速に普及した事実に裏付けられている。すなわち、@緊急時にも連絡が容易にとれること A随時連絡がとれることにより、企業間の取引のような刻々と変化する状況に応じて迅速かつ柔軟な判断を要する場面においても対応できること また、B家族間においても急用や予定の変更が生じた際にも便利であること、等が挙げられる。
 2 反面、所構わず使用することにより、周囲の人が迷惑になる、というマナーの悪化による現代社会への悪影響は指摘されて久しい。特に電車等の公共機関において携帯電話を使用することは、心臓ペースメーカー等の医療機器の誤作動を引き起こすおそれがあり、人命に関わることなので、使用禁止は厳守されるべきである。しかし、私の知る限り、マナーが守られているとは言いがたい。
二 携帯電話の普及は、マナーを通じて個人と現代社会に密接な関連を有していると言える。そこで、依然としてマナーが守られないのはなぜなのか、それが現代社会にどのような影響を及ぼしているのかについて以下検討する。
 1 電話とは、離れた場所にいる相手と一対一で話すのが最も一般的である。つまり、電話をするという行為は、きわめて個人的な行為であるといえる。それはどういうことか。例えば、マナーを度外視して、友人と二人で電車に乗っている最中、かかってきた電話に出たとする。そのときその人は、電車内という社会とも、また友人と共にいる、という社会的関係をも、一時的にではあれ断絶しているということである。
 2 このような断絶は日常茶飯事に起こりうる。そもそも携帯電話自体が社会的な空間で使用されることを前提としていることからも当然のことである。そして、携帯電話によって個人は頻繁に社会との関係を断絶し、電話の相手との私的な社会関係を新たに構築していると考えられる。また、携帯電話の普及によってこのような状況が常態化し、その個人の集合で成り立っている社会での個人と個人の関係とは、携帯電話の普及する以前の「過度に干渉しない」という消極的な、いわば善意の希薄性から、「他人がいようといまいと関係ない」という、積極的な希薄性へと変化していることが言えるのではないか。
 そしてこのことが、携帯電話の普及が現代社会に与えた最も大きな影響であると、私は考える。
三 このような、個人が強調されすぎともいえる社会にあっては、マナーは守らなければならない、という前提から崩れかかっているのではないだろうか。一向にマナーが守られないというが、そもそも携帯電話の持つ性質そのものがマナーと相反する側面を有する事実は否定できないだろう。
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2005年05月12日

ウケないポジティブ・シンキング

 妹「お兄ちゃん、入れて」
 兄「いやだ」
 妹「入れてよ、おねがい」
 兄「だめだ」(妹をからかっている様子で)
 妹「おねがい、早く入れて。濡れちゃうよ」
 兄「・・・しょうがないなぁ、入れてやるよ」
 妹「ありがとう、お兄ちゃん」

 妹は無事兄の傘の中に入ることができたようです。
 朝から強い雨降りでしたが、仲の良さそうな兄妹のほのぼのとした光景を見せてもらったなにわのマット・デイモン、その心は雨(降らし)男のLG18です、こんにちは。

 昨日の書き込みは墓穴を掘ったな、と思った箇所があったのですが(どことは言わないし、修正もしていない)、「墓穴を掘る」というのは、自分から自分を追い込むようなことをする、という意味で用いられるのが一般です。
 しかし、考えてみるとおかしくないですか?

 別に自分の墓穴を自分で掘ったからといって、早死にするわけでもなし。相手と決闘していて、それも「先に相手を埋めた方が勝ち」みたいな子供じみた決闘でもないと、この慣用句は命題として成立しません。
 もちろん、感覚的にはわからないこともないです。すなわち、相手を倒すというときに自分の墓穴を掘る、というのは、既に(気概で)負けているも等しいと考えることはできます。「小次郎、敗れたり」という、アレですね。業界だったら「択一の試験前から適正試験の対策してる」みたいな。これでは択一に受かるはずもないという。

 慣用句にケチをつけても意味はないけれど、今の時代に決闘を前提に物事を考えることは少し無理があります。すなわち、「墓穴を掘る」ということは、自分の死に支度を自分でしているのだから、他人に迷惑をかけないで死ぬ、つまり「立つ鳥跡を濁さず」みたいなイメージをもつ方が当世風だと思うわけです。
 もっと言えば、「死ぬ覚悟ができている」という意味にも取れるのではないか、その場合、決闘を前提としても矛盾しない、と。
 應徳は出てきませんが
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2005年04月22日

「曇りなき眼で見定めよ」

1: 知り合いの女の子から、高校時代学校に双眼鏡を持っていって休み時間に教室の窓から双眼鏡をのぞき、体育館や運動場など離れた場所にいる男子生徒を品定めする「いい男ウォッチング」なる遊び(でしょうな)が流行ったと聞きました。
 そのときは笑って聞き流していたのですが、考えてみると、これがもし男女が逆だったら、つまり男が双眼鏡で窓の外の女子をのぞいていたとしたら、まず変態扱いされることは間違いないでしょう。場合によっては、女の子を見るつもりが全くなくて(もちろん実際にも見てなくて)も変態の汚名を着せられたうえに双眼鏡を没収される、なんてこともあるかもしれません。そういうのは男女差別とは言わないんですかね。
 前振りが長くなりました。清廉潔白と書いてえるじーじゅうはちと読みますLG18です。

2: 少し前の話になりますが、SMAPの「世界に一つだけの花」という歌が大ヒットしました。あの曲が売れていた頃、私はそれを苦々しく思っていました。
 というのも、「No.1にな(れ)らなくてもいい」なんてNo.1の人達に言われても全然説得力ないじゃないですか。なのにあの歌はSMAP(=No.1の人達)が歌ったからあんなにも売れたわけで、槇原敬之が普通に売り出していたら、せいぜい「良い曲やねぇ」で終わり、売れたにしても記録的大ヒットとはいかなかったであろうことは、経験則から容易に想像できます。(覚せい剤騒動もあったことですし)
 私の周囲にいる人間は私と同じことを言っていた(これを類友という)ので分からないんですが、買った人はこれほどまでに明らかな矛盾についてどのように考えていたのかは今も気になるところです。
 でも、と、ふと考えてみると。
 じゃあ、例えば私(要するにどう見てもNo.1でないことが明らかな人間)があれを歌ったとして、誰が買う(支持する)か? 「そんな(偉そうな)ことはNo.1になってから言えよ」と。私ならそう思いますね。
 私自身、決してSMAPが嫌いなわけではないし、あの曲を買ったたくさんの人たちを非難する気など毛頭ありません。ただ、否応無く競争を続けること自体が生きるということだという現実のなかにあって、あのようなきれいごとをさも真理であるかのように、安易に賛同するのはどうかと思います。極論になりますが、原理はカルト宗教と何ら変わりがないわけです。要するにその一点さえ見えていれば何ら問題はないわけですが。。。
 小学校の運動会の踊りの曲にこの曲が使われた、などと聞くと、おぞましく思います。子供達に判断する力はないんだから。余談ですが私達の頃は「花笠音頭」「河内音頭」「ソーラン節」などでした。教育は重要ですね。

3: さて、今日は個人情報保護法案の話なので、堅めにいきました。(→こちらを参照)反対すべきだとの意見がよく聞かれると思います(私も反対です)。ですが、賛否は自分の頭で判断してください。自分の身は自分で守る。悲しいことかもしれませんが現実がそう流れています。


 ・・・こんな極端な論調を展開する私は、もちろん物心ついたときからオンリーワン(と書いて傍若無人と読む)でした。SMAPの皆さんに啓蒙していただくまでもなく。
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2005年04月12日

後生おそるべし

 「夜を照らすタバコの吸いがら踏み消して『自縄自縛』すれる靴裏」(自作)

 今の若い方々のなかには(ってお前いくつだ)、自分さえよければいい、と考える方がいるみたいですね。その考え方自体はエゴに忠実なので、決して否定はしない(する意味がない)けど、問題なのは、エゴのスケールがとても小さいことですね。
 だから(というのも正確でないが)、海の向こうで戦争があろうが大津波がこようが、日本の領土がどこまでだろうが、どうでもいいと考えるむきがあるようです。自分に直接関係無いから。
 勉強してる知り合いの中には、サッカーで日本代表が戦っていたことすら知らない、それも勉強づけだからというのではなく、どこが勝とうと自分には関係無いからだ、と言いきる人もいましたが、それは法曹になるための根本的な資質に欠けてると個人的には思いました。
 というのも、そんな風にしか物事を考えられない人が、他人のために仕事ができるんでしょうかね? また不合理なことに、勉強以外何も見えていない人の方が試験には早く受かるのですが。

 自分にはその尋常でないエゴの(スケールの)小ささと、その中での濃さが理解できないですが、思春期にインターネットがあるかないかの違いは、以後の人格形成に与える影響が甚大なのは事実だと思います。
 この私のたわごとは、つい5,6年前であれば、確実に(名実ともに)たわごとでしかなかった。同じことを私が自分のノートに書きつけたところで、読む人がいるはずもなく、数年後には廃品回収車のお荷物となっていたものです。それが今や世界中から見られるのですから。そうなると(名の方は)たわ言ではない。そうだとすると、思春期から世界中に自分の言葉をばらまくことに慣れっこになっている人は、自分の発した言葉がたわ言であることに気付くチャンスがないことになるのではないか?
 あまりピンとこないけど、これは恐ろしいことだと思う。

 もちろん、子供が荒れるのはネットのせいだけではないし、子供の責任でもない。一番の原因は大人がルールを守らないからだ。(こちらを参照)
 そこで上のうたです。私が吸ったんじゃありません、と書かないと伝わらないと思われるほどの駄作ですけど。一応「夜」と「世」は掛詞ですんでよろしく(笑)、でも「靴裏」と「苦痛ら」は単なる誤変換です。残念!
posted by LG18 at 02:36| Comment(3) | TrackBack(1) | 思うこと・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月06日

「新しい」のために必要なもの

 「サントリーのウーロン茶の紙パックの付属のストロー 無駄に長い」

 「天つゆのない天丼なんて」略して「つゆどん」(よろしく!)にトラックバックが5件入ってるユメを見た。いよいよ俺の時代かといい気になったところで目が覚めた。今のところただ重いだけで日記となんら変わりないけど、そのうち、そのうち。
 ユメといえば安住アナウンサーがみんなからいじめられるのを傍観しているユメも最近よく見る。テレビごしだったりスタジオっぽい雰囲気の場所でじかにみていたり。有名人がユメに出てくることはほとんど無いし、テレビも見ないんだけど。スポーツニュースだけは各局ハシゴしてますけど。阪神が強いんで。

 ええと、「新しい」の話だ。今はちょうど「新しい」季節で、人間関係や生活スタイルが一新する人も多いことでしょう。自分はダメだったけど
 新社会人とか、新入学生とか、新居とか、その大抵は自ら勝ちとった栄光の門出によるものであって、非常に喜ばしいことです。おめでとうございます。
 それに合わせてというのか、自分が今日言いたいのは、上に挙げた人達だけしか「新しく」なれないわけではない、ということ。

 一番上に挙げたもの(サントリーの…)は、短歌です(森本平「個人的な生活」より)。それをアバンギャルド(新しいもの)と捉えるか、短歌に対する冒涜と捉えるかは読者各人に委ねられてるけど、今までにないという意味では新しいといえる。
 こういうものに対しては、よく「天才」とか言われたりする。向井秀徳が曲書いたら「天才向井が狂気を創造」みたいな見出しが音楽誌に出たり。
 それも一つの評価ですから否定はしないけど、私は才能というよりは勇気に近い気がする。ためらいがないということ。つまり、こういう「新しい」は、才能がなければ縁がないものかというと、そうではない気がする。むろん皆が皆何かを創造するという意味ではないけれど。
 よく「昨日と同じような一日」といわれるけど、それを抜け出すには、春がこなければならないわけではないし、特別な才能も必要無い。引越しのような、そのための(規模の大きな)行動を起こさなければならないというものでもない。必要なのは、ほんの少しの勇気だけだと思う。

 急に安っぽい空気が充満したような気がしないでもないけど、そう思うんだから仕方が無い。私は、毎年桜の花を見ると、その景色にも、それを映す自分の目にも、変化を感じます。自分でも笑えるくらい。うまくいえないけど、転がりつづけています。それがいいことかわるいことか、今はまだわからない。けれどそんなことはどうだっていい。いつか振り返って考えることもあるかもしれないけど、そのとき何を思っても、それも一つの評価でしかない。良くも悪くも。
 どうやって転がりつづけるか。自分の場合は好きなものを追っていた。好きなものに対してなら勇気も出せるし、後悔もしないはずだ。
 とどまっていて、しかもそれを良く思わない人がいたら、参考にしてもらえたら幸いです。転がり始めた瞬間から、目に映る全てのものが新鮮に感じられることと思います。何も勝者の特権ではなく。
 興味のあるものなんてない、という男は、女の子に声をかけることをお勧めします。何のことはない、自分もそうだから。
posted by LG18 at 23:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 思うこと・主張 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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