2006年10月15日

やはりナマがよろしい

 先日、あるインディーズバンドのライブに足を運んだときの帰り際、観客の女の子二人組がしきりに「イッた、めっちゃイッた」と言うのを聞いて眉をひそめていたのですが、帰り道ふと思い至りました。

 彼女たちは文字通りイッてたのだろう、と。

 一方私は、ライブに心を揺さぶられることとは無関係に、冷静に、むしろ淡白なほどに、熱狂的な雰囲気を観察してました。今なら羽毛布団が飛ぶように売れそう、とか。それは私がセックスをしているときに女を観察する眼と同じだった。
 斜め前の女がマリオネットのように跳ねている。暗いなか無駄なほどに眼をギラつかせている。青い照明を浴びても、顔が紅潮しているのが分かる。つまり感じているわけだ。

 あの場では誰もが裸だったということ。狭い空間に大勢がひしめいて。
 アンコールの「もう一回」の声が心からの懇願であったことも。

 私もあんなところで歌いたいなあ。
 「お疲れの出ませんように……」ってか。癒し系か。

 参照記事……誕生日が分かってしまいましたな。

2006年09月06日

「ドッチニセヨ・ショー」(06・日)

 少し前に「トゥルーマン・ショー」という映画がありました。私は予告編しか見ていない(いずれ本編を観るつもりではいる)のですが、その中に(「生中継で死なせるのか!?」という問いに)「産まれたときも生中継だった」と答えるカットがありました。ふとそれを思い出しました。

 ようやくの休日で、昼前に寝ぼけ眼で起きてきた私に母が、「男の子が産まれたで!」とたたみかけてきました。
 兄の子がもう産まれたのか、随分予定より早いなと思いました。兄の子は、まだつわりが済んだかどうかのところだったはずですが。

 誰の子であろうと、(性別など挙げるまでもなく)この世に生を享けたことはめでたいことです。ただ、私がその立場だったら、ぞっとするだろうなと思います。

 そういう映画だと思います。

2006年09月05日

そんなに私は偏屈か

 芥川賞(「八月の路上に捨てる」)が全く物足りなかった(こっちはメシを食うつもりでテーブルについているのに、出てきたのはかっぱえびせんだった、というような感じだ)ので、直木賞とはどんなものだろうと、今回初めて読むべく「オール読物」を買いました。全文掲載されていないことにはうんざりさせられましたが、それはまあ良い。

 「風に舞いあがるビニールシート」は6編の短編から成っているようですが、表題作の始め5行の迫力は、ここ数年の芥川賞にも無いものでした。こちらの方が作品としてはよほど芥川賞に相応しいものではないかと感じました。
 最後の一シーン(一ページちょい)が下手で、特に最後の一行が致命的で、(予想された結末とはいえ)がっかりさせられたことは間違いないが、しかし全体としては作品から魂が感じられた。キャラもしっかり立っているし、底力のある文章だと感じました。
 その勢いでもう一編を読んでいる途中です。途中だからわからないが、今のところ惹かれるものはない。
 受賞作のもう一作の方は、これも途中ですが、BLくずれの冗長な展開にいい加減で辟易してます。どのみち全文読むことは叶わないですが、掲載分を全て読んで続きを読みたいと思えそうにない。

 私の好みは極端で狭いものですが、求めているのは文学だと信じています。私が文学というのは、明治大正の文豪と呼ばれる人達が書いた作品を指すのではなく、出方はどうであれ賞賛に値する熱い魂の迸った作品を言います。
 現代においては映画や漫画に当たる方が文学に出会うことが多く、小説からそれを汲むには、大方のところ結局はすでに死んでいる人の作品に当たるしかないのかと思うと、個人的には寂しい。自分が今生きている時代に背を向けているようで。

2006年08月22日

本日も一首

 「食う豆は数えの年だ」切り札を切れないままで貯めてるつもり

 今日も弁解

2006年08月21日

本日の一首

 エスカレーターを昇る二人がキスをする せいぜい昇りきるまでのこと

 自らする解説は弁解という

2006年08月20日

だからその手を離して

 人「『ルナルナ』って何か意味があるのか?」
 LG「訳すと『狂狂』だわな」
 人「は?」
 LG「ルナはlunaだから、狂人(lunacy)の略だろう」

 人「……調べたら、ルナってのは月の神の名前らしいけど?」
 じゃあそれで構わんよ。面倒くせえ。

 私自身こだわりがあるわけでもないし、解釈は一通りでないのだから誰がどのように考えようと頓着はしません。聞かれたから思っていることを答えただけのことです。
 しかし、「君」とあるから人(格)であるとか、狂気という観念は(日常生活のレベルで)到底受け入れられないとか、なんで勝手に世界を狭くしたり、その狭い世界を押しつけたりするのか。自分の頭で理解できないことなんて世の中にいくらでもあるだろうのに。

 歌ぐらいなら無視することも難くないが。

 参考記事1
 参考記事2

2006年08月09日

とりあえず向いているらしい

 佐藤隆様 享年49 死因:落馬による頭蓋骨骨折および脳内出血 謹んでご冥福をお祈り致します。

 今日は仕事が早く終わったので、一人でミナミの玉突き場に行きました。
 カテゴリに趣味の枠で設けてはいますが、私はビリヤードが上手くありません。というより、全くの素人です。
 仕事帰りでマイキューがないから、さらにひどい。それでも一時間600円(以降30分ごとに300円)でそれなりに楽しめるのだから、コーヒー飲むほど落ちつきはなく、パチンコほど金がかかららず、ネットカフェほどヲタでもなく、ちょうどかなと思います。

 趣味と言えば、仕事場で読書の趣味が非常に近い人を見つけました。10分足らずで交わし合った情報に基づいてその人の趣味を表にすると。

 太宰:☆
 梶井・織田作・川端:◎
 谷崎・ドストエフスキイ:○
 三島・村上龍:−
 村上春樹:△
 志賀直哉(「暗夜行路」を除く)・泉鏡花:×
 海外作品は原則読まない←日本語から先に読め。

 いかにも国文って感じの、分かり易い趣味には違いないんですが、私から言えばそれは乱暴な括りであって、ミーハーとたぎるような情念とくたびれた紙ヤスリのような感覚とがコーヒーみたいにブレンドされたチープな趣味は、いそうでいない。
 第一、まさか社会へ出て本の話で、しかも鍵カッコ付きの文学作品の中身の話ができるとは思いませんでした。本屋に勤めていてもそんな奴はいなかった。

 海外作品を読まない点について、「翻訳で良いやん」と第三者が言ったときに、「それじゃ作品を読んだことにならんねん」って声揃いました。その前に「海外作品は読む?」と聞かれて「イヤ、読まないんですよ」と答えたところ、同意されましたが、自分が読む作品を聞かずに読まない作品について尋ねるあたりのひねくれ具合も似てると思いました。
 もっとも、ここまで似てる人間とはそれほど気が合わないと思います。私は自分みたいなタイプの人間は好きじゃないので。

 一時間ちょうどでビリヤード場を出たら、900円請求されて、出てからレシートを見たら、利用代金一時間600円に加えてテーブルチャージ300円とありました。
 一瞬カチンときましたが、金持ち、もとい、社会人ケンカせず。梅田のビリヤード場は汚いくせにうるさくて高いから好きじゃない。

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2006年08月07日

狂っているのはお互い様だ

 高橋清晃様 享年80 死因:肺炎 謹んでご冥福をお祈り致します。

 プロフィールの音楽欄はほったらかしなんですが、「cure jazz」聴いてます。ジャズを聴く(ことに抵抗を覚えない)人間は私の周りには少ないのですが、能うかぎり勧めていたときに起こったことを少し。

 人「なんか良い音楽はないか」
 LG「今のお勧めはこれだ」CDをかける
 人「……こんなオシャレなのはいらんねん」
 ちょっと待て。何がどう「オシャレ」なんだ。
 そういうことがあったということを、CDと共にジャズ研に在籍していた友人に話したところ。

 友「まあ、オシャレだろう」
 LG「お前まで(馬鹿なことを)! 何が? どう?」
 友「そりゃまあ、オシャレな喫茶店とかショットバーに流れてそうなのが(オシャレの基準だろう)」
 ちょっと耳を疑いましたが。

 ジャズというのは、まともな神経で奏でられるものではない。それはロックが年寄りにはできないというのと同じくらい、明らかなことだと思っていた。ジャズだからオシャレという発想は、私はジャズという音楽形式とは無関係だと言っているのと同じではないだろうか。
 私自身ジャズに関しては全くの素人で、何も知らないに等しい。感覚だけで聴いているようなものだからめったなことを言えないが……
 どだいジャズというのは、他の音楽形式に比べれば軟体動物のように定型がない。メロディすらほとんど定まっていない。秩序や体裁といったものから無縁な形式だ(ジャズにはジャズの秩序があるといっても、それはいわば新興宗教の教義と変わらない)。コードという背骨一本でなんとか立っていられる。形式としてはそうである(その分感覚に拠るところが大きいから知識は必要ないというのが私の論理である)。そんな代物がまともな神経で奏でられるものだろうか。考えれば分かることだ。

 「ジャズというのは狂気の音楽である。あんな狂った音楽を聴いていたら頭がおかしくなる。狂人なんかに構っていられない。」私は、世の中でジャズを敬遠する人は大抵こんな風に考えているものとばかり思っていた(それなら問題無い)。「オシャレだから自分には合わない」という発想は、同じ敬遠でも正反対だ。本質を雰囲気ですら掴めないまま奉るというのは、恐ろしいことだと思う。それとも、狂気という言葉を知らないから、オシャレという言葉を代わりに使っているだけなんだろうか。いずれにしても、それが狂気だ。私にとっては。

 ジャズに限らず、狂気はそこかしこにある。ただ気をつけなければならないのは、狂気というのはあくまで相対的な評価であるということだ。狂っているのは対象の方か、自分の方かは2分の1の確率だ(狂っている人間が狂っていることをしても自覚するきっかけがない←狂気に触れたとき、両方が狂っているということはほとんどない)。だから基本的に、自分にとっての狂気はそばに置いておかなければならない(意識する必要もなく、狂気の方から常にやってきてもらえますけどね。例えば昨日書いた、定刻通りに葬式が終わるとか)。私がジャズに触れるのは娯楽としての狂気であって、厳密にこのスタンスではないが、狂気の存在意義を見誤ってはならない。

 「狂っている人間は、『自分は狂ってなんかいない』というものです。」名言というよりは定着した感の強い言葉だが、他人事と捉えていたら――

 大変なことになりますよ。

2006年06月26日

TRICKのトリック

 バイト先で、(勤務時間が違うため)普段あまり話すことのない人が話してるところへ、急にTRICKの話を振られてまごつきました。

 人「自分、『TRICK』好きやんなあ?」
 LG「え? あ、はい、まあ」
 人「再放送すんの今日やった? 明日やった?」
 LG「いえ、あの、知らないですけど」
 人「そっか。自分ごっつ好きそうやけどな」

 どちらかといえば好きだが、「ごっつ好きそう」って、どう思われてるんだろうかと気にかかるLG18ですこんばんわ。「TRICK」のKを反転させようと苦戦してるふりぐらいはしてみました。
 私はミステリーやらサスペンスやらに興味がないので、TRICKが好きそうと言われると、仲間由紀恵(単体)のややマニア受け志向の匂いがするコメディにハアハアしてるとか、ドラマと平行して理屈っぽいとか、あまり良いイメージは浮かばないですが。

 TRICKの笑いは「いかがわしさ」の一言に集約できます。一部しか見てませんが、だいたいは人里離れた山奥の村が舞台になって、そこでしか通用しない奇妙なしきたりや風習が幅を利かせていて、笑い(と、それに対照させる形での悲劇)のベースを形作っている。小細工(見てない人には分からないが、たとえば布施明神だとか)を駆使して後味は笑いの方が勝るように作ってあるが、実は自分たちに近い話だと言いたがっているところが、私の好きなところです。

 すなわち、よく言われる「田舎者」というのは、実際の出身云々ではなく、得体の知れない(しばしば理不尽な)権威に考えもなしに屈する、つまり自分なりに物事を考える力やセンスのない人間を指します。これは今の時代、(絶対数もそうだが)田舎よりも都会にいる人間の方が多い。よく言われるところでは「マニュアル人間」なんかがそうです。エビちゃんが着てる服だから欲しいという理屈と、神(「001」の「00」が秀逸)が言うことだから従うという理屈は、同じものです。

 分かりやすく考えれば、笑いの対象になるものは人間しかいない。もちろんそこには自分も含まれている。そういった原点に忠実なところが、ウケる理由ではないかと。数々の小細工も、いかがわしさあってこそで、あのドラマではそれらがうまく練り合わせられていると思います。
 よく言われることですが、笑ってる場合じゃないんですよ。

2006年06月22日

ただ僕らは、受け入れるだけの器

 ただ僕らは 受け入れるだけの身体を
 互いに寄せ その傷を舐め合った
 叶うならば 胸を焦がすような想いを
 錆びついた空に躍らせてみたかった

 ……と、これだけを読んでも、別段の感銘は受けないというのが正直な感想です。それがギターを操って、あの声で紡ぎ出されたら(コメント&PVはこちら)もう、エンドレスなわけですよ。
 重要なのは何を表現するか(内容)ではなくて、どう表現するか(手段)である。これは大学時代に会得した自分のなかでの真理ですが。
 お気づきの方も多いと思いますが、最近、といってももう2ヶ月ぐらい、他人の創作にぶら下がる形でしか記事が書けていない本屋体質のLG18ですこんばんわ。

 私はかつて小説を書いていたことがあったので小説を前提に話を進めますが、創作をするために必要なものはと問えば、時間だとかネタだとか技術だとか体力だとか、あるいはひらめきや才能だとか、大体これらが挙げられます。特に、実際に書いている人はこれらを挙げる。でも一番必要なのはそれらのどれでもない、執念です。必要性といってもいい。私には執念が致命的に足りなかったから、じきに小説を書かなくなった(本当は、書けなくなった、と言いたい)。究極的に言えば、書かなくても生きていくことができた。

 森鴎外はこの執念が足りなかったと、一部で指摘されています。私が思うに、村上春樹もそうですね。二人の共通点として挙げられるのは、訳が多いこと。訳というのは、一種の批評であり、傲慢な盗作でもある。「ただ訳すだけ」という仮定は、すでに矛盾を孕んでいる。例えば森本平の短歌などは、いわば外国語で書かれたみたいなもんだ(森本語だとかいう意味ではない。くれぐれも)。それを私が訳すといえば、大きなお世話だということになる(この場合は失礼だということにもなる)が、本質が何か異なるかといえば、異ならないのではないか。

 私は(センスの良いパロディを伴わない)「ものまね」が嫌いです。ただ純粋に似てるということに何の価値があるのか。最近は音楽業界でもカバーが流行っています。商業的な要素を差し引いて考えると、あれらはほとんどが単なる怠慢と見るべきでしょう。
 模倣と創作の線引きは容易ではありません。以前少女漫画作家が絵の流用を指摘されて実質上作品の発表差し止めを食らったときには書けませんでしたが、あの基準は本質的なそれではない(あれが問題だったとしても、私がここで言う模倣とは別の問題である)。
 それでも、小説まで届かない執念を中途半端に処理している私からすれば――訳などは公然に認められているけれども――やはり世の中パクリだらけに思われる。盗人ならそれらしくうつむいてろよ、と。

 たまに執念をたぎらせて持て余してしまうと、このように体裁も整わないものになってしまいます。こういうのを幻惑させられたという、とか言って。
 今日もこんなんで終わりかい、っていう。

2006年06月21日

荒里が俺を呼んでいる

 こんな夢を見た。
 コンビニ業界において、フライドアリゲーターは利益率が非常に高い。KFAで社外取締役を経験した社長が荒野で躍起になっている。煉瓦で土地を囲っている。新店舗のための土地確保かと思いきや、風による土壌の飛散の防止であった。「作物ができる土は、せいぜい地表15センチまでなんだ」風吹き荒ぶ荒野で社長は言った。
 シャベルを取るため物置の扉を開くと、眩い光の向こうに洞窟が開けた。社長は社長の仮面をとって盗賊になった。別世界で、手ぐすねひいてカモを待ちうけていた男は、一番金を持ってそうな盗賊にそっくりに変身し、ためらわずに襲撃した。
 元社長の盗賊は重傷を負ったが、男の変身は露見した。男は踊ることで空気を振動させ、かまいたちを意図的に起こす術を使う。波田陽区似の宮本武蔵は男から30メートルほど距離をとると、やにわに踊りだした。かまいたちを起こしたことはないが、男にできることなら自分にもできるだろうと自信だけはあった。

 第二夜はフェイントです。愛読者のみなさまこんばんわ。LG18です。言い訳するつもりはないですが、現実の夢ってこれぐらい(支離滅裂)だと思います。

 森本平さんから歌集が届きました。第六歌集「町田コーリング」。初版は6月20日付けになっていて、アマゾンではまだ売ってないようです。お礼のメールはおろか、ここに書くことについて断りもしてません。まあ本人見てないだろうし大丈夫だろう。

 まだ一度目を通しただけで、個人的な感想しか書けませんが、"森本憲法"(タイトルは「KNOW YOUR RIGHTS」)はかなりウケました。「第十三条 国家を尊重する限り個人として国民も尊重される」「第十四条 階級の存在は目をつぶり平等だと盲信する義務を有する」……と、この調子で(笑)第一条から第五十条までの体裁で五十首あります。都合の問題と思いますが、どうせなら九十九首見たかった。あるいは四十首で切っても良かったと思いますが、そこは介錯の穿鑿はなしで。そのほかでは、「ありもせぬ来世を思うこの次は短歌なんぞはいらぬ人生」という作品を、「短歌」を「つゆどん」に変えて盗作疑惑には本歌取りの一点張りで逃れようか(今そんなのが流行ってるみたいだし)と思いましたが思いとどまりました。一年ちょいブログを通じ得たものは木星人の歌集数冊(自作)
 最後にもう一首、ご紹介してお別れしたいと思います。「ケンタッキー・フライドチキン、ケンタッキー・フライドチキン、ふらいどち…」
 これで繋げたつもりか。

2006年05月24日

たまには天ぷらうどんもどうぞ

 プロフィール欄でコツコツ更新してたものをまとめて紹介します。趣味丸出しで恐縮ですが、興味のある方はどうぞ。

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2006年05月19日

「この炊飯器にはタイマー機能がついてますが、米は炊けません」

 少し前に「のび太の恐竜2006」という映画がロードショーでやってました。作者である藤子・F・不二雄は亡くなっているので当然別の人が作ってるわけですが、看板を見るとタケコプターで飛んでいるのび太の髪が風に靡いている。フリづらいネタで始めたもので挨拶の間が取れずまごついているLG18ですこんばんわ。

 タケコプターがどれほどのスピードかは分かりませんが、中空を飛んでいる以上はある程度の風を受けるわけで、髪が靡くのはごく自然なことです。逆にいえば、今まで風に靡かなかったことがおかしい、といえる。スネ夫に至ってはもはやカツラを通り越してヘルメットですよ。
 しかしながら、私は不快感を禁じえなかった。それはこの絵にではなく、作画者にでもない。もちろん、なじみの深い絵を変えられたからでもない(描く人が変われば絵が変わるのは当たり前のことだ)。

 なぜ今までのび太の髪が風に靡いてこなかったか。そんなことはどうでもいいからだ。アニメの場合、技術の問題も勿論あるが、もしかしたら、作者は意図を持って髪を靡かせなかったかもしれない。それくらいにどうでもいいことだ。

 ドラえもんに限らず、今の漫画はどうでも良い詳細にこだわりすぎる傾向がある気がする。かつて私は手塚治虫の作品について詳細がかなり省かれていて、その点では完成度に欠けるという内容の記事を書いたことがある。それは風に靡く髪どころか、ストーリーの進行上必要であると思われるレベルの詳細について詰められていないと感じたからであるが、なぜそんなことになるかといえば、そんなことに構ってられないほどに描きたい中身があったからだ。

 「のび太の恐竜2006」に中身があるかないか、私は見てないからわからない。中身があれば良いというものではないし、無いから駄目だともいえない。実質に加えて形式が備わればそれに越したことはないとも言える。
 ただ、上にも書いたように、全体的に少女漫画化してるというか、例えばAが宇宙人だという事実をBが知って驚いて、そのときまだCは知らなくて、ずっと後になってCが知ったときにまた同じように驚いて見せるとか。しかも大抵そういったものは作者が望んでその状況にしているのではなく(すでに読者が知っていることを驚いて見せることに意味は無い)、話の展開上Cは知らないことになってるんだから、じゃあ驚かないと不自然だ、という、単なるつじつま合わせでしかないことが多い。ここからは主観だが、そんなつまらないつじつま合わせにコマを浪費するような無駄の多い漫画は、くだらない。それに、現実から跳躍するという漫画の出発点に矛盾する傾向であるという点からも、実にくだらない(一つの町でひっきりなしに殺人事件ばかり、それも犯人が毎回の様にちょこざいな小細工を弄するとか、指摘として無益を越えてもはや害悪だろう)。

 もう一つ本末転倒ということでいうと、「天才バカボン」という漫画で、バカボンのパパが走り回ってるコマがあって、バカボンがパパになぜ走り回っているのか尋ねたところ、パパが「コマをうめるのだ」と答えるくだりがある。
 これはバカボンパパにしかできない荒業であるが、漫画である以上、コマは絵で埋めなければならない、そうでなければ漫画である意味がない、という決まりであり誇りでもあったところがある。
 ところが最近の漫画の活字(文章)の実に多いこと。それも絵ナシで文章だけのコマとか、ざらにある。

 形式を頑なに守れというつもりはないが、なかにはそんなに文章が書きたいなら小説描けばいいじゃないか(単に絵描くのがしんどいからサボってるだけだろう)と思うものもある。短歌について書いたときと同じことだが、自分が何の為にその表現手段に拠るのか、小説なら文章、漫画なら絵、音楽なら音、その素材とどれほど向き合ったか、その特質を見極めて描いているのか、という基本的な姿勢は、もう少し問われるべきじゃなかろうか。
 漫画みたいな小説、小説みたいな漫画、漫画と小説のコラボレーション、ニュージャンルの開拓、確立。「DEATH NOTE」を西尾維新がノベライズ。大いに結構。そういった「動き」を否定してるわけじゃない。むしろ賛同だ。漫画とは何か、文章で描くとはどういうことなのか、各々の表現方法と真摯に向き合った上でのものであれば。

2006年05月13日

「眠れる美女」を読んで寝言

 先日友人とカラオケに行ってきました。気心の知れた顔ぶれで遠慮は要らなかったので、勇んでお気に入りのバンドを探しましたが、バンド名自体が項目に無くてがっかりさせられました。インディーズのファンはこういうときが不便だなぁと思ってましたが、帰ってから、「チリヌルヲワカ」というバンドなのに、「イロハ」(アルバム名)で検索していたことに思い当たりました。紛らわしい名前だ。
 さて、これを読んでくださっている方も、次回以降「天丼のない天つゆなんて」で検索をかけてここへ辿りつけないことのないようご注意ください。インディーズなもんでご迷惑をおかけします。管理人のLG18ですこんばんわ。最近更新の間隔が空き気味ですが、決して試験勉強に勤しんでいるため更新の時間が取れないとか、そんな真っ当な理由ではありません。単なる気まぐれです。

 川端康成の「眠れる美女」をようやく読み終わりました。何年か前に途中まで読んだきりそのままになっていたのを、先日気まぐれをおこして続きから読み出してそのまま最後まで読んだという。以前の話を覚えているのかという疑問があるかもしれませんが、全く問題ありません。読めば分かる。
 延々と同じこと(眠れる美女)ばかり描かれます。息苦しい(単調とは違う)。そしてエロい。ここでいうエロいというのは、非常に危険な意味を指します。倖田未來だか來未だかの格好やAV女優に付けられる形容詞のような、(表向き)健全なそれとは違います。えげつないという言葉の方が正確に伝わるかもしれません。
 スピッツの「冷たい頬」は、殺した女(13歳未満)の頬を撫でながら、「壊れながら君を追いかけてく」ことをも(無意味だと)穏やかに醒めきった、ある種超越した感覚で振りかえるだけの歌ですが、方向性は近いです。中身が書けないもんだから似た作品を挙げただけです。

 エロ(ティシズム)とは何か、考えさせられます。私はそこらの野郎よりも変態を自負してますが、上に描かれるエロは生産的でないという意味で本来のものとは違う。「眠れる美女」は、眠ってるという設定にはなっているが、実質上死んでいるものとして描かれている。「死ねる美女」でない理由は、ネクロフィリアに限定するのがナンセンスだから、つまりはエロさに欠けるからということですが。
 結晶としては作品でしか成立し得ないという意味でも、危ういものだと思います。ナトリウムみたいなもんですかね。

 解説で三島由紀夫がデカダンスだと書いているのですが、正直私はデカダンスの主義主張が未だに理解できてません。むろん(?)高校の現代文の授業中に延々文庫本で「斜陽」を読んでいて、当てられたのに無視したという理由で(私は当てられたことを知らなかった)本を取り上げられたクチなんですが。
 (「眠れる美女」に比べれば)あんなものはデカダンスではない、と三島は息巻いてますが、それは流行としてのデカダンスと孤高のデカダンスとの違いであって、要するに時代の違いでしかないと思いますけども。
 やけっぱち芸術? そんなものに人生を賭する価値が? 芸術のやけっぱちか、やけっぱちでも芸術か、それが問題だ、とか言って。

 文学を専攻してる方に贔屓してもらっているここで言うのも気が引けるのですが、文学は経済学よりも学問たりえないと思います。

2006年04月21日

花鳥風月

 三島由紀夫「春の雪」を読み終えました。少し前ですが。
 感想については月並みなものしか書けそうにないので概ね割愛して、筆者の意図はさておき、聡子(こないだの映画では竹内結子が演じていた)の方が悪役として描かれてましたね。(映画の)予告編でも使われてましたが、「私がもし急にいなくなったら、清様、どうなさる?」の一言が全ての元凶です。逆にいえば、ストーリーの構造として全てこの一言に還ってくるように作られています。げに女は恐ろしき。

 さて、ヒロイン聡子は没落貴族の生まれですが、「優雅」だけは錆のように残っていて、凡庸な、というよりむしろまるでうだつのあがらない聡子の父親も、歌会だけは尋常でない活躍を見せます。それは娘の教育にも徹底していて、「和歌にならない恋は無価値だ」と聡子に刷りこむのです。これは興味深いテーマです。

 忘れてもらっては困るのですが、つゆどんは生粋の短歌ブログです。などという妄言はさておき、和歌は恋を歌う(ための)ものだ(った)と思っていた私には新鮮な命題でした。目的と手段が逆になってます。
 もちろん、それは(一時であれ)敷衍された価値観かは分かりません。古典を下敷きに書かれた小説だといっても、古典にどう書かれていたかは直接読まないことにはわからないし、位置付けとしても小説のテーマとは程遠いもので、キャラクターの持つ「優雅」を演出するための道具に過ぎません。もとより父親は常識人としては描かれていないのでなおさら(筆者個人の、それも偏った設定かもしれない)です。

 ときどきふと思うのですが、短歌というのは(俳句でもそうですが)なぜ形式が決まっているんでしょうか? 技量を問う(磨く・見せる・競うetc.)ものである。以前も書きましたが、それはもちろんそうでしょうが、それが(究極の)目的ではないはずだ。となると、やはり美(の追求)ということになろう。少なくとも私にはそれ以外に候補すら浮かばない。

 となると、やはり聡子の父親の考え方の方が本質に結びついているといえる。間違っても、和歌は自分の恋愛(の○○さ)を表現するためのものではない。より良い和歌を詠むために、自分がする恋愛の方を選ばないといけない、というのが本来真っ当な考え方なわけです。そんなことのため(だけ)に生きる、という歪んだ合理性のことを「優雅」と呼ぶのだと、「春の雪」には書いてありました。基本的に私も賛成ですね。

 現代も相変わらず恋愛を歌った歌は多いですが、はっきりいって私はこれらが好きでない。それはもちろん、私自身が現代の恋愛偏重主義に反対の立場を取るので、巻き込む形で評価できないという主観的な事情はあると思います。しかし、私は私で生粋の恋愛ブログ(あれ?)を書いているので、「恋愛を扱うからダメだ」とは思っていないはずです。
 時代の流れにも逆行して(つまり平安時代前後の貴族間で国政と並列に扱われるほどの価値観の欠片もない現代で)、それでもなお飽くなき美の追求のために、この歌を歌うためだけに私は生きてきた、この恋をした、という迫力があるか。そうでなかったら何が悪いのかって、短歌で恋愛を歌うことの意味が根本から揺らぐってことじゃないですか(違うんですかね?)。
 私みたいな素人がこんなところで歌う分には可愛い小鳥の囀りと流せようが、たとえば歌人と呼ばれるような人が、技巧やらセンスやらが格段に上乗せされこそすれ、根本的に何も変わらないとして、だから新しい道を模索するというならともかく、何ら疑問を感じないというのはどうかと思いますけどね。ましてや「耳に入り易いから」なんて、話にもならない。

 受け手に求められるものが多いという点で小説より厳しいのは事実ですが、作り手の方で折れてしまったらおしまいだと思います。それは形式を維持すべきということではなくて。

2006年04月10日

熱情

 久しぶりにhideの「beauty & stupid」を聴いたら、かなりなことを言ってることを初めて知り、驚きました(B'zの「BAD COMMUNICATION」と合わせて、こういうの好きですけど)。先日は売り出し中の洋楽のオムニバスの曲をほとんど全て知っていて、今までそういう経験がなかったのでそのときも驚きましたが、年とったんだなあと感じさせられました。若者についていけないのは今に始まった話ではないLG18ですこんばんわ。

 私が初めて音楽で驚かされたのはXで(今になって尋ねてみると同年代の友人たちもやはり同様なんですが)、たとえば「紅」を聞いて、ただ恋に破れただけのことであそこまでやれるのがロックなんだ、と、少年LGは理解していました。少年には合理化というフィルターを通さないと、均衡が保てなかったのだろうと思われます。
 hideをよく聴いていたのはすこし前(全てが済んだあと)のことですが、そのときは音の緻密さに驚かされました。目立つナリやテンポの速さとは違った、地味ながらきめ細やかなセンスを好もしく感じた記憶があります(yoshikiとい(られ)たんだから当たり前といえば当たり前だが)。そのときはそれに気を取られて歌詞を聞いてなかったわけですが。
 今になって、(初めて)憧れる。「ことができる」とつけ加えたほうが正確かもしれない。

 「春の雪」(三島由紀夫著)を久しぶりに読み進めました。文章ばかりに気を取られて、ストーリーに足を絡めとられました。文庫で読んでますが、200ページの手前は赤面ものです。耳の先まで。19を過ぎた男なら誰しもが似たり寄ったりの経験があることでしょうが、自分は何周もリンネしてるし、正視できない。何と言うか、「文学」様に手をついて謝って、逆さまにして本を読み進めたい。唯一の救いは、自分には優雅の欠片もないことです。そこから逆算すると、この話の先は読めるし、それがまた非常に納得されます。
 そう思っているうちに、恥を棚に上げて、羨望を覚えます。

 どっちにしても、自分の答案を300通弱揃えて(=自分でブログを四季やって)、ようやく得られる感覚なんで、悪くはありませんが。

2006年03月12日

JAM

 合コンから乱交に流れた翌朝の会話。
 女1「なんでジュディマリ(JUDY AND MARI)って解散したんやろ」
 LG「なんでも何も、金しか無いやん」
 女2「そんな……夢も希望もない」
 LG「夢も希望もって、そんな分かりきったことを」
 と、ここまで言ったとき初めて気付きました。自分に女が靡かない理由。
 女3(沈黙、あるいは無視)

 これって、宇宙の真理になりませんか? よろしくお願いいたします。
 この宇宙の真理、つまりこういうことになります。「男がジュディマリを金だと言い捨てると、それだけで百人中○○人の女がひく」
 かれこれ三年前の話ですが、彼女たちが今出ているらしいベストを、なんでもないです。
 五年後(2011年)までにジュディマリが再結成する方に3000点。

 私をジャムにしたならどのような香りが立つかブラウスを脱ぐ (河野小百合)
 会いたくない喋りたくないジャムばかり匂う部屋では笑いたくない (森本平)

 キラキラと輝く大地で君と抱き合いたい。

2006年03月08日

読書遍歴(外濠を埋める作業)

 中学校に上がったばかりの頃に、自己紹介カードなるものを書かされて、全員の分を教室の後ろの壁に張り出してあって、自分のロッカーのすぐ前にある女の子のそれが張ってあったのですが、その子の「尊敬する人物」の欄に「三島由紀夫」と書かれていて、その理由の欄には「三島由紀夫の小説が好きだから」と書いてありました。そして、好きな本の欄には(大半の人間が空欄か、漫画などを書いてる中)、潮騒と書いてありました。
 当時の自分はといえば、一度も読みもしないのに三島の作品は「難しい」と思いこんでいて(なぜなのかは未だに分からない)、そもそも「潮騒」自体の読み方を知りませんでした。(「チョウソウ」ではありません。念のため)自分に理解できないものに耽溺してるものだからこの人はすごく頭の良い人なんだと思ってました(まあそれは実際そうだったんだが)。
 かくいう自分も、一応小学校6年のときに夏目漱石の「坊ちゃん」や「吾輩は〜」を読んではいた(そしてそれらは以来一度も読んでいない)のですが、字面しか追えていないのは当時の自分にも明白で、例えば「細君」の意味を知らないまま最後まで読んだとか、読んだうちに入りません。
 「吾輩がこう、柱で爪をちょっと研ぐと、すぐに細君が怒り出して」云々というわりかし有名なくだりがありますが(小学生の記憶なんで文章はフィーリングです)、それなんかも誰が怒り出したのかわからないまま読み進んでる。細君というくらいだから細い人なんだろうな、とか。作者自身だと思って読み進んでいたように記憶してますが、作者らしき登場人物はまた別にいるからこれがよく分からないと混乱する。そのくせ「夏目漱石は神経質だった」などという話を聞かされると妙に納得したりして、神経質なときの作者を「細い」と表現しているのか、などと得心したりしてました。めでたいくらいの馬鹿野郎です。

 私は「仮面の告白」だけ3冊も持っていて、他に無駄に同じものを持っていることはないのですが、そのくらい、読もうと思っては挫けて、それを忘れて、というのを繰り返しています。三島といえば上に書いたような記憶が浮かぶほど、一種のコンプレックスに陥っているといってよいでしょう。
 そして今、「春の雪(豊饒の海・第一巻)」を読み始めました。私はこれまで、「仮面の告白」のほかにも「金閣寺」や「幸福号出帆」などにも手を出して失敗してます(「レター教室」とか「文章読本」とか、軟派(?)な方はすらすら読めた)が、今回はこれまでで一番読みやすいです。末期の作品で文章が洗練されているということと、私が今まででもっとも年をとっているということの二点でもっている様です。
 最近ようやく気付きましたが、私はもともと小説を読むのがそんなに好きではありません。皮肉にも、最近ようやく小説の面白さに気付きかけたところですけども。

 「春の雪」は、非常に面白いです。電車で読んでて笑いをこらえるような面白さです。ただし読んでいて非常に疲れます。海外文学譲りの無駄な熱はともかく、あんなにも絢爛たる文体で、言葉の贅を尽して、何が言いたかったんでしょうか。比喩はもとより、体言止めや倒置法などの修辞は見事なまでに光っていますが、それらの技法の洗練は彼にとって何の価値があったんでしょう。
 それはこれからおいおい読み進んでいくところです。

2006年03月05日

吉井和哉が嫌いまたは興味のない人は読まないように。

 「吉井和哉」でバトンを渡されたので、それを書くということです。はい。
 なお便宜上、THE YELLOW MONKEY(の吉井和哉)に限らせていただきます。

 1.PC、または本棚にある「吉井和哉」

 蔵版はオリジナルアルバム8枚および現在ディスコグラフィに載っていない「SPARK」までのシングル集とACT.2、解散後に出した3枚組のベストアルバム。(計13タイトル)
 蔵書は「蜜色の手紙」。本は先日買ったばかりですが。
 映像は持ってません。

 2.今妄想している「吉井和哉」

 THE YELLOW MONKEY ベストアルバム発売決定!

 DISC 1 (表ベスト)

 1 LOVERS ON BACKSTREET
 2 JAM
 3 審美眼ブギ
 4 HONALOOCHIE BOOGIE
 5 創生児
 6 人類最後の日
 7 天国旅行
 8 ROCK STAR
 9 HOTEL宇宙船
 10 エヴリデイ
 11 SEA
 12 BURN
 13 Song For Night Snails
 14 追憶のマーメイド(原詩版)
 15 Father
 16 BRILLIANT WORLD

 DISC 2 (裏ベスト)

 1 MORALITY SLAVE (アルバム版)
 2 SUBJECTIVE LATE SHOW
 3 O.K.
 4 LOVE LOVE SHOW
 5 悲しきASIAN BOY
 6 MOONLIGHT DRIVE
 7 RED LIGHT
 8 ZOOPHILIA LOVE
 9 フリージアの少年
 10 SUCK OF LIFE (アルバム版)
 11 ROMANTIST TASTE
 12 ゴージャス
 13 球根
 14 嘆くなり我が夜のFANTASY
 15 空の青と本当の気持ち
 16 プライマル。

 DISC 3 (初回限定特典・ライブ版)

 1 ジュディ
 2 SHOCK HEARTS
 3 バラ色の日々
 4 STONE BUTTERFLY
 5 GIRLIE
 6 薬局へ行こうよ
 7 カナリヤ
 8 メロメ
 9 HEART BREAK
 10 DEAR FEELING
 11 サイキックNo.9
 12 聖なる海とサンシャイン
 13 峠
 14 パール
 15 MY WINDING ROAD
 16 SO YOUNG

 表が裏の裏みたいになりましたが。
 出たら値札も見ずに即買いのラインアップですわ。勿論全曲リマスタリングでお願いします。

 3.最初に出会った「吉井和哉」

 初恋を訊かれて、幼稚園だとか小学校4年だとか言う人がいますが、アレらについて初恋と定義付けるのは誤りだと考えます。私の初恋は高2の春休みでした。
 同じように、ヒットチャートで「JAM」を聴いてこいつらうぜー、と思ったときや、その後なんとなくシングル集を借りて、「熱帯夜」と「SPARK」以外を飛ばして聴いていたときを最初とするのは誤りで、大学生の時に「jaguar hard pain」をレンタルして聴いたのを最初とするのが適切だと考えます。
 それでも、当時はそれほどイレ込んでもいなかったけど。

 4.特別な思い入れのある「吉井和哉」

 蒔いたみたいな大麻を思い切り吸ったからか、もうケシの実は大地へ返そうと思う。

 5.あなたにとっての「吉井和哉」

 タバコの似合うイイ男。

 質問の趣旨を汲めてないって? 宗教は好きじゃない(「ファン」っていうのがどうにも苦手)なんで。

 ● 知らない人には何ともない記事になってしまいました。ごめんなさい。

 他に趣味の音楽はこちら

 まだ読む?

2006年03月02日

のび太にはかなわない

 バイト先(本屋)で、最近の作品は(やたらに)重いものや暗いものが多い、という話になって、私がふと「せめて作り物ぐらい明るくすればいいのに。ヘビーなのは現実だけで十分だ」と呟いたら「格言ですね! ていうか、何があったんですか」と過剰に反応されました。イヤ別に何もないですよと答えて(実際何もない)、うっかり口を滑らせないように気をつけようと思いました。

 一方、逆の立場にたつと、「何があったのか」と探る気持ちはよく分かります。以前女の子とお酒を飲みに行った時、何かの拍子にその子が「女は股さえ開けばなんとか生きていける」と呟き、驚かされた記憶があります。酔いが回って、という風でもなく、私も「そんなもんかあ、分からんけど」と軽く笑って流しましたが、不遇な過去を勝手に想像してしまいました。でもきっとその人は(追及すれば)イヤ別に何もないと笑うんだろうなと思います。

 断っておきますが、遠まわしに自分の過去は不遇だったとか言ってるわけではありません。(私の吐いた言葉について)考えてみれば、この程度のことは(という言い方もおかしいが)のび太も言ってました。メルヘンランドというところへ皆で行く話のラストで、何巻かは忘れました(多分30巻台だと思う)が、その巻のしょっぱなの話だったと思います。

 私は幼少時からのドラえもんフリークスで、自分が読んだ話(半分弱)は自分でもわからないほど深いところに収納されているらしいです。上に挙げた他にも、この年になってようやく触れられるようになった感覚なんかを、のび太が一言で言い表してたことを何の脈絡も無く思い出したりして、私にはなぜ彼がテストで0点を取るのかとても理解できないんですけどね。

 俺なんかよりよっぽど頭がいいぞ、奴は。

 何の脈絡もない続きを読む
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